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2012年06月26日

【ガンダム特集】ガンダムを通して世界を認識する若者たち

以前、富野さんが「ガンダム」を通してしか物を見られない若者の弊害を語っておられたことがありました。
それを聞いて以来、僕も「『ガンダム』ってある種の呪いなんだな」っていうふうにずっととらえてたんです。


岡田斗司夫と富野由悠季監督との初対談は、オタク学入門・文庫版の特典として行われました。
その思い出が遺言4章に語られていることを、今回のガンダム特集でもご紹介しています。
今回は、その特典「オタク学最終講義:ガンダムは何を教えてくれるのか」を再録します。

 6月いっぱい行いました怒涛の「ガンダム特集」、トリを飾るのにふさわしい内容です。
ぜひ、じっくりお楽しみください。

富野監督との写真
新潮文庫『オタク学入門』P373より


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富野:『オタク学入門』を読ませてもらいましたよ。
でも、僕に言わせると、今やオタクは人畜無害以前の”消費者”でしかないんじゃないかと思う。
悪いけど、オタクを論じている場合ではないと思うのよ。
現実をご覧よ。今や、地球は住めないような荒れ果てた状態になってきているでしょう。
そういう状態に地球を陥れている、恐ろしい存在についてこそ、時間を費やして話し合うべきだよね。
オタクは、ぬくぬくとした囲いのなかでしか生きられない存在だからね。
そもそも、今はそんな安全な世の中じゃないと思うよ。

岡田:十数年も前に書いた本を読んでいただいて本当にありがとうございます。
このときは政治闘争の意味も含めて、オタクってあんたらが思ってるほどひどくないよ、というニュアンスで書いているんです。
この文庫の元になった単行本を書いたのは、1996年で、過剰にオタクが非難されていた時期でした。
だから、思い切って持ち上げないといけなかったんです。
今は当時と逆で、「オタクっていうのは割といけるかもしれない」と思っている人が多いから、この論じ方だと誤解を受けるかもしれません。
でも、いろんな問題点があっても、オタクっていうのは「あんたの息子よりましかもよ」とか、「あなたの息子と同程度のダメさかげんかもよ」っていうのが、今も僕の意見なんです。
オタクだけが特にダメな存在と思いません。むしろ今の日本の平均的若者像がオタクに近くなってしまったのではないでしょうか。

富野:問題なのは「オタク的」っていう言葉の使い方だと思いますね。
こちらで「オタク的」とレッテルを貼って、オタクを隔離して物を考えるだけでは、現代の病巣は見えてこないと思うな。
むしろ「オタク的」にしか物事を考えられない、その辺にいる普通の人々の方が、今はものすごく大きい問題をはらんでいるっていうことがわかってきたんです。
特に政財界など社会の上層部に陣取っている人々に危険を感じるのよ。
そういう実感があるから、僕は数年前から、オタクっていう言葉を安易に使えなくなっちゃったのね。
岡田君が言うように、平均的な日本人の中に「オタク的」な要素が蔓延している。もはやこれは一部の特殊な人々の問題として、おもしろがっている場合じゃないと思う。


【オタクはもう死んだ?】

岡田:僕は2年ぐらい前に、オタクの存在の変化を自覚して、「オタクはもう死んだ」というテーマでトーク・ライブをやりました。
オタクは「高度経済成長」、「高度消費社会」と、「日本人特有の勤勉さ」の三つが括抗している状態で存在する現象みたいなもの。
だから、高度成長・消費社会が崩れて、勤勉さが失われたら、オタクという存在自体が許されなくなってきた。
今は、人々はオタクにまでならずに、ただ単にニートになってしまったり、現実に適応できない人になってしまっている。
富野さんが「オタク的」という言葉で指しているのは、このような低成長社会に対応できない人々では、ないかと思います。でも、僕に言わせると、それはもうオタクではありません。オタクって本来、自分の興味に遁進してそれを極める努力をする人々のことなんですよ。
その過程では、困難を乗り越えたり、ジャンルを超えて勉強したりする。
今は、賛辞を受けるにしても、非難を受けるにしても、オタクというひとつのくくり方では無理があるんじゃないかって思うんです。

富野:まったく、そうですよね。

岡田:1979年に放映が始まった「機動戦士ガンダム」も、オタクの変質の過程と同じくらいの年月を経ています。その問、「ガンダム」を取り巻く状況も随分変わったと思います。
僕が見ている限り、今の二十代、三十代の若い人というのは、ただアニメとしての「ガンダム」が好きだ、というのにとどまらず、「ガンダム」に照らし合わせて物を考える癖がついてしまっていると思います。
今日はこの機会に、「ガンダム」を土台に据えてしか物を見られない人々が出てきてしまったことに関して、富野さんがどう思われるのかをおうかがいしたいんです。


【「ガンダム」を通して世界を認識する若者たち】

富野:ある人から、「スペースコロニーがあるって信じさせたのは富野さんでしょう」
って言われたのね。
また別の機会には、「リアルな戦争を教えてくれたのは『ガンダム』です」と言われた。
ちょっと待てよ、あれはロボット・アニメだぞ、と思ったんだけど、その人たちは「信じろと言われたから、信じました」と言う。
だから、この先、僕は、こういう間違った思い込みを覆す仕事をするしかないと思ったの。
だから僕が死ぬまでのテーマは、この二つのことを、岡田君が言ったような「ガンダムを通して物を考える人」に伝えるということ。
つまり、一つめはスペースコロニーなんていうのはたかがロボット・アニメのファンタジーに過ぎないんだよ、ということ。
二つめは、戦争っていうのはこんなものじゃないんだよ、ということ。

岡田:以前、富野さんが「ガンダム」を通してしか物を見られない若者の弊害を語っておられたことがありました。
それを聞いて以来、僕も「『ガンダム』ってある種の呪いなんだな」っていうふうにずっととらえてたんです。
呪いという比輸は、「ガンダム」を創った張本人に対してすごい失礼な言い方になりますが。

富野:全然構わないよ。

岡田:現実に、「ガンダム」で人生、戦争、世界といったものを認識してしまっている人がいる。責任者として富野由悠季は、何かしなきゃいけないって考えるでしょう。でも、これを単なる社会現象として見てどう思われるのか、あえてその「責任」を外して意見をうかがいたいのです。


【二千年先まで人類が生き延びるためにどうするのか。】

富野:僕は生真面目な人間だから無責任な発言はできないな。
マス(群衆・大衆の意)という人の集団は、絶えず流動しているんだから、こういう事態を「しかたのないこと」と容認することはできるようになってはきました。
そう思えるようになるために、この半年、訓練したんだよ。

言葉で時代の概念を規定しないと気が済まないような人にとっては、言葉だけが唯一の表現手段かもしれない。
でも、時代というのは言葉で捉えられるようなものではないんだよね。
言葉にすがりついて物事の表面しか見られないようなバカでも、生きとし生けるものは本当に恋しいよね、と今やっと思えるようになった。
自分も人間の一員である限り、そのバカの一員でもあるんだから。

でも、スペースコロニーなんていうのはあり得ないファンタジーで、戦争っていうのは「ガンダム」でやられているような生やさしいものではないんだよ、ということくらいは僕が伝えないといけないと思うようにもなってきました。

SFが一つだけ予言しなかったのはごみ問題だけど、今やまさにそれが人類最大の問題になってきている。
先日、海のごみの調査をしている人と対談しましたが、その方が「ごみの問題っていうのは世界最終戦争の始まりと思っていい」と、おっしゃいましたね。
間違いなくそうだと思います。この方のごみ問題への意識のように、僕が問題にしているのは、この二十年、三十年ではなく、人類がこの先千年生きるために、二千年生きるために、今我々がやらないといけないことは何か、ということです。

岡田:いま「ガンダム」という現象が人の心の中で価値観のベースになってしまっています。
富野さんは、ここまで膨らんでしまった事態をどういうふうにお考えですか。

富野:そういう状況は、一切、知りませんと言っておきます。

岡田:でも、そういう事態に関して困ったなと思っていらっしゃるから、さきほどのように人類の将来を考えた発言になるわけでしょう。
それに僕は、「ガンダム」をベースに戦争を考えてしまう、という人を必ずしも否定的に捉えていません。
たとえば、「ガンダム」以前は、アニメファンはみんな「字宙戦艦ヤマト」をベースに戦争を考えていましたよね。

富野:ハハハ・・・・・・。僕は、そうは考えていなかったけど(笑)。

岡田:富野さんは別として、当時の若者、アニメファンにとって、「戦争に関して考えない」か、「宇宙戦艦ヤマト」か、の二択だった選択肢が、「ガンダム」の誕生で第三の選択肢ができたわけです。
戦争について考える人がほとんどいなくなっていたところに、「ガンダム」ができた。その意味では、僕は、ガンダムファンという人々は、富野さんがおっしゃるように百点じゃないかもしれないけど、85点だと思う。
全否定する必要はないと思います。


【戦争がなぜ起こるかを考えた】

富野:ロボット・アニメで戦闘シーンを描いて、それを「戦争を描いている」とか言われた時は、僕は理解不能だったのよ。こんなおもちゃ以下のもので、何でそんなことを言うんだ、と驚きました。なぜこういうふうに考える人がいるのかについては、1~2年と言わず真剣に考えましたね。

岡田:そんなに考え込んだんですか。

富野:ええ。昔、お勉強ができない「バカな富野君」がいたのよ。ろくに物も知らないから、子供に向けて作品を作るときに、僕の頭で考えられる程度の「戦争って何で起きるんだろうか」ぐらいのことは、「ガンダム」を創る1年ぐらい前から調べてました。
それで、戦術を立てるとか、戦略っていうのは、一体どういうことかという程度のことは勉強した。
だけど、ここで理解してほしいのは、そもそも「勉強する」といっても、このレベルの低い子が「勉強する」というレベルは、アカデミックな意味の「勉強」まで到達していないかもしれないのね。
この意味は分かってもらえるでしょ?

岡田:はい。

富野:そうやって自分が無手勝流に勉強したことを一生懸命「ガンダム」に入れただけのことで、それで「戦争論だ」と言われでも困る、と思っていました。
だけど、その後、ちょっと待て、リアルに戦争している人たちの方がもっとバカかもしれない、と思うようになってきた。戦争はいまだ、なくならないからね。

岡田:僕が『オタク学入門』で考えたのは、こういうことです。
昔はハイクラスの人たち、ハイソサエティの人たちが持っていた文芸とか芸術とか、クラシックな教養があったと思います。
でも、今の世の中、かつて教養と呼ばれたものはもう、なくなってしまった。
それがなくなった現代、アニメなど、本来は学術的な分野ではないことでも、「教養的」な価値観をもって探究することで、ある高みまで到達できるのではないだろうか。それは本物の教養に比べれば、偽物と言われるかもしれない。
でも、その到達度によって、それを探究した人の人間性などはある程度計れるのではないだろうか。
一流シェフの技術とは違うかもしれない。
でも、たとえラーメン屋でも、修行すれば、料理人として胸を張っていいと思うんです。
同じような関係がアカデミックとオタクとの関係でも言えると思ったんです。
入り口がラーメン屋だから料理人としてだめだ、ということではなく、出会いや実体験という修行をどういうふうに積んだのか、その結果の到達度で人間性は計れると思うんです。
僕は「ガンダム」はその修行の入り口だと思ったのです。


【文化の土台としてのサブカルチャー】

富野:岡田君が言いたいことはわかりました。
この先はもう認識論の問題になってくると思うな。
つまり、人間が何をどこまで理解できるのか。
認識論では、物事の理解が深いか浅いかが問題で、その対象に上下関係はないのよ。ハイカルチャーが上でサブカルが下、ということもない。
文化全体がピラミッド状になっているとすると、サブカルが下の方の脇にあって、ハイカルチャーは上層部にあるっていう考え方が、僕にはわからなかったけど、今、話していてようやくわかった。
僕はあのサブカルっていう言葉が、どうしてもわからなかったの。
「脇にある」っていう意味の「サブ」じゃないんだね。
要するに、大衆が支持している物事がすべて文化。サブカルも含めて様々な物事が土台になって文化全体を成しているということだ、と理解するようになった。

岡田:そうです。
だから、かつては司馬遼太郎の作品を通じて日本文化全体を理解していたような形で、「ガンダム」を通じて物を考えている人がたくさんいるんです。
ここまできた事態を「サブカルチャーに過ぎない」と言われるとしたら、僕は、今の日本にはもうハイカルチャーはないじゃないか、と言いたいですね。
今は、ハイクラスの人たちも、家族が揃ったらテレビのバラエティを観る時代ですから。
上流階級の人たちは下品なテレビなんか観ないで美術館に行っている、なんて時代じゃないんです。

富野:さっき言ったように、認識論で言うと、ハイだのサブだのは関係ない。
理解の深遠さで物事の到達度を計るわけだから。
「ガンダム」の延長線の頂点にハイカルチャーになり得る部分があるから、それはそれでいいんだよね。
ハイカルチャーになり得る部分があると言ったのは、「ガンダム」から入っていって物を考えて構築していったファンが、「ガンダム」的な論を構築したら、それがハイカルチャーになる、ということはあるかもしれない、という可能性のこと。

あのね、僕みたいな「バカな子」でも、いろんなことを考えた。
実は「バカな子」にはいいこともあって、視界が結構広いんだよね。
僕は、物事を要領よくピンポイントで仕留められないんですよ。
だから、いろんな無駄になるようなことをあれこれやってみて、たくさん経験したことから、これかな、と思うものを出して勝負してきた。
この先、こうして僕が集めてきたものを、少しお勉強ができる人が選別して論理体系をつくってくれて、また次の世代でその論理を語る人が出てきてくれる。
その先にもう一世代ぐらいこの論理体系にかかわってくれる人が出てきたら、将来、「ガンダム」的なハイカルチャーっていう柱が立つかもしれない。そう考えれば、この先「ガンダム」は文化として継承されていくのを待つだけかな、と思ってもいいかもしれない。

だから、「『ガンダム』を通して物を見る人々がいる今の時代をどう見ていますか」という質問に対しては、僕は宗教法人の教祖とかカリスマになる気はないから、「あ、お好きにやってください」というだけです。
一代きりのものなんて残るわけないんだし、たった一代のものが文化論にまでなるとは思えないから。

わかりやすい例を一つ思いついた。
マルクスが社会主義論を構築した。
このイデオロギーを礼讃する人々が、幾つかの国家を立ち上げるところまでいった。でも、今改めて思えば、マルクス・レーニンでも、百年と保っていない。
だから、イデオロギーや主義主張を立ち上げるのは、絶対にナンセンスなことだ、ということ。

一方で、アニメやファンタジー的なものを見るのは、リアルに世の中を考えるための鏡になると思っている。
そういう存在として、フィクションというものがあり得るんじゃないかなって・・・・・・。
ほんと、ごめんね。オタクの話から一生懸命話題をずらしていったりして

岡田:ちょっと「ガンダム」に話を戻しますが、去年(2007年)、「ガンダム講談」というイベントが東京でありました。
そのときに「ガンダム」って何だろうと改めて自分で考えて、その異常さに改めて気がついたんです。
普通の人には子供時代の文化があったり、あるいは「オタク文化」のような固有の文化がある。
その自分が持っている文化の中に、たとえば映画という文化がある。
またその映画文化の中のサブカテゴリーにアニメがある。
そのアニメの中のサブカテゴリーにロボット・アニメがあって、ロボット・アニメのサブカテゴリーに「ガンダム」がある。
マトリョーシカ状に、一人の人の文化の中にもこういう「系統」 があると、僕は考えているんです。

でも、今の若い人はそうじゃないんですよね。
「ガンダム」っていうジャンルがあって、その横にアニメがある。
つまり、「ガンダム」だけで一つの王国ができているんですよ。
だから「ガンダム」をロボット・アニメの一つとして見るのは、それは文化批評的には正しいんですが、現実には「ガンダム」だけで物を考えている人がかなりいる。
そういう人は「ガンダム」モデルだというだけで欲しくもない腕時計が急に欲しくなったり、携帯電話を買いかえようとする。
そういう話をされると、当事者の富野さんとしては、バカかと思うかもわからない。
でも、僕は本当の意味の「神話」ってとういうものではないか、と思うんです。
つまり自分と全く関係のない世界が心の中に存在している。
だって変な話ですけれども、今の日本の平均的な二十代、三十代の人間で天皇家の人の名前を全部言える人より、「ガンダム」に出てくるザビ家の人の名前を言える人の方が多いですよ。
これは富野さんもおわかりですよね。

富野:まあそうでしょうね(笑)。

岡田:それは悪いことではないと思うんですよ。
人間は、神話がないと生きられない。
さっきおっしゃったように現実を考えるための、鏡としての神話です。
ローマ、ギリシャの時代から、たとえ話として、「へ一フは嫉妬深いから」と言うように、生活の中に神話があった。

富野:ああ、本当にそうですよね。

岡田:現実そのものだけを見るのは難しいから、現実のひな型として神話を身近に置いて、それに照らし合わせて語る。
自分と世間との聞にあるものとして、神話は存在したと思うんです。

富野:その通りだと思いますよ。

岡田:「ガンダム」はその意味でもう「神話」になってしまった。
もはや世代を超えた共通文化なんです。
それが、今や国境を越えてよその国との共通神話になりつつある。

富野:いや、それはうそです。
日本人がそう思いたがっているだけで、それほどには伝播してません。

岡田:でも、「スター・ウォーズ」ほどではないにしても、「スター・ウォーズ」の次ぐらいのポジションにはありますよね。

富野:そうかな。俺、「スパイダーマン」の方が上だと思うけど(笑)。

岡田:「スパイダーマン」は、次世代の続編も固有の世界観も作れないから、「スパイダーマン」よりは上です。

富野:それについて異議申し立てはしません。
僕にとっては、「ガンダム」が百年続くかどうか、それが世代を超えて認識論まで立ち上がるところまで行くかどうかの方が重大な関心事で、他の作品より上かどうか、なんて全然興味はないですよね。

岡田:「ガンダム」は百年は必ず持つでしょう。
「ウルトラマン」より持ちそうでしょう。

富野:僕も百年は固いと思っています。
ただね、神話としては「ウルトラマン」の方が持つかもしれないな。
というのは、「ガンダム」の人気の博し方が、ちょっと屈折しているから。
それに、白人とかキリスト教文化圏には「ガンダム」の構図はわかりにくいと思ってもいます。
もっとあり体に言うと、きっと難しいんだろうなと思う。

岡田:そうですね。

富野:だから、この先もそんなに伝播しないような気がしている。
ただ、文化の壁を乗り越えたときには、確かに世界教になり得るかもしれないとは感じますけど。

岡田:「スター・ウォーズ」はローマ帝国論をストーリーに取り込んでいるから、グローバル・スタンダードの道を行けたな、と思うんです。
でも、さっきおっしゃったように「ガンダム」は西洋人にわかり易いお話ではないですね。


【多神教のもとに生まれたニュータイプ】

富野:そうだね。この問、ガンダムの大会で話をしたときに、ようやくそのことがわかったのよ。
「ガンダム」は、三つの要素のために、一神教ではないんです。
まず、「僕程度」が一生懸命考えてつくったのが「ガンダム」だから、ストーリーに絶対神なんていう万能の存在はなかった。
もうひとつの要素は、僕が多神教文化の日本人だから。
三つ目の要素は、僕は「ガンダム」を日本文化だけにとらわれない、世界に通じる価値観のもとで作りたいと思った。
だからこそ、東洋人が想像している、迂闘な一神教というのは的はずれになるに違いないと思って、絶対にその要素を入れないよう、気をつけた。
これは弱点になりますね。

岡田:「スター・ウォーズ」が、白人文化系のスタンダードな神話として、この先、イエス・キリストの物語に次ぐポジションをとるかもしれない。
同じように、「ガンダム」はこのまま行くと、アジア人の物語と言えるほどの共通認識にはなるのではないでしょうか。
「ガンダム」のストーリーのお家騒動って、アジア人の感覚ですよね。

富野:そうなんでしょうね。
それから、結局、ニュータイプ論というのは多神教なのよ
(注・ニュータイプとは、「ガンダム」のストーリーの根幹を成す概念。物事を全方位的に深く理解する能力、またはその能力をもっ人間を指す)。
北京に行った時に「ガンダム」の人気に驚いたけど、多神教信仰を共有しているからここまで人気があるのかもしれない、とは思いましたね。

岡田:富野さんは、「ガンダム」を観て戦争を語るというのは、やっぱり変だと思うかもしれません。でも、僕は自分の実感として覚えているんですが、「ガンダム」を観た時に、ここから幾らでも、どとにでも行けるというようなすごい自由を感じたんですね。
それまでのアニメもすごかったんだけど、「アニメなんだけど案外いいよ」という言い方に、なっていました。
でも、「ガンダム」が出てきた瞬間に、ここを起点としてどんどん伸びていって、やっと「スター・ウォーズ」に勝てるじゃんみたいな、それまでにない自由を感じたんです。

富野:あ、実は、「スター・ウォーズ」に関しては言いたいことがあるのよ。
「スター・ウォーズ」と「ガンダム」はほとんど同時スタートなのね。
「ガンダム」の企画の段階では、僕は「スター・ウォーズ」を知らなかった。

岡田:そうなんですか。

富野:だから、企画は同じ頃にスタートしていたのに、半年だけ放映されたのがこちらが後発だったということが、今日に至るまで響いていて、気に入らない(笑)。
一つ思い出したのは、この本の中で出てくるけれど、ビームサーベルのことで、僕は「スター・ウォーズ」をコピーしたなんていう言い方はしたことないよ(本書93頁)。
「スター・ウォーズ」のライトサーベルではだめなんだよ。
あんなにピカピカに光ってるっていうことは、自分の刃先が見えるわけだから、あれで人を倒せるわけがない。
敵に武器とか必殺兵器を見せてどうするのよ。
ビームサーベルっていうのは、いつも出てるんじゃないの。
ポスターでは出ているから、いつも発振しているように見せているだけで、本当は切る瞬間に出すんだよ。
それまで刃先なんか絶対見せてない。

岡田:あ、そうなんですか。

富野:本来はそうなの。
それをバカな担当演出家が、見栄で出していたりするわけ。
だからもっと言っちゃうと、ビームサーベルのビームって、あんなに太くないんです。あんなむだなエネルギーなんか使ってません。
ビームは、ものすごく細くて、性能がいいの。
そうでなかったら、切れないもん。

岡田:それはおみそれしました。今の今まで・・・。

富野:何度言っても、アニメーターは僕の言うようにはやってくれない。
僕が原画をチェックしている時には、本当に細くしろ、これ以上太くするなって、細かな指示を出したものです。
だから、「スター・ウォーズ」を見たときには、うわー、これでやれてりゃいいよな、ってあきれました。
でも、こんなサーベルで切れるわけないじゃん、っていうことを、いまだにだれも言わないんだよね。
だから、結局オタクって大した とないのかも(笑)。

岡田:現代人が時代劇や江戸物を見ても、現代的な感性で見ちゃうのと同じで、気づきませんでした。

富野:全く同じことだよね。

岡田:通常、小説家であっても、どの時代の人間も同じはずだと思って、ついつい現代人をどこのどんな設定でも書いてしまう。だから、昔、富野さんが『リーンの翼』を書き下ろしとして出されたときに、明らかに現代人でない若者を書かれて、読者の僕らはものすごい戸惑いを感じたんです
(注・『リーンの翼』とは83~89年にかけて書かれた作品。異世界「バイストン・ウェル」を舞台とする。アニメ化され、2005~6年にインターネットで配信された)。

富野:ぼくは、人間性の一番コアな部分は後の世代までつながっていける、一番重要な部分は伝承されるものだというふうに思っています。
だから、さっきも言った認識論がどうやって高まったり深まったりするのかは、物事のコアな部分をきちんと取り出すことができるかどうかにかかっていると思う。
だから、この瞬間起きていることの何を研究するかということで、表面的な現象論というのはあまり大きな問題じゃないと思う。
現状認識だけを変に神経質に取り上げることはやめて、その芯になる部分を見詰める必要があると思いますね。

たとえば、現状認識レベルでは、僕は「ガンダム」のカリスマで、教祖かもしれない。その認識自体は、僕にとっては嫌なことなんです。
でも、要するに「ガンダム」から始まったものが、認識論のレベルにまで高まって、人が物を理解する時に、何らかの助けになるんだったら、それはそれでいいと思うけど、それは僕という人間の価値論ではなくて「ガンダム」のことだ、と考えたいですね。
つまりさ、タイトルが残る作品というのは、それで固有の価値をもつ、固有の存在になっているもので、作者は置き去りにされているのよ。
処女作を抜けない作家はいっぱいいるわけだし、創作行為を支えているものの半分以上は、作家の才能ではなく、その時の外圧だもの。
全部が一個の才能でつくられた作品というのは、あるかなあ・・・・・・。

岡田:でも、そういう高みまで到達するための道筋として、オタクは、まだましなバイパスの一つなんじゃないかと思うのですがね。

富野:それはこの十年くらい、つくづくそう感じています。
一人の人間が認識を立ち上げていく中で、5感の刺激や、好奇心からいろんなものに目を向けていく。
その上で、おれはこれが好き、これは嫌い、という繰り返しを実体験としてさんざんやった上で学識を持つ。こういう過程を経た学識を持たない人は、社会の競争に出てはいけないのではないかと思いますからね。

岡田:そのお話を受けてですが、「ガンダム」は、自分をこういう高みまで持っていきたい、極めたい、と思ったときの目標になっているのではないでしょうか。
そういう目標を与えないと、人は頑張り方がわからないんじゃないのか、ということです。
自分たちの便利を追求して、研究としてやるのではなくて、目指すべき未来の見本が欲しくて、SF映画を観たり、「ガンダム」を観たりするわけじゃないですか。

富野:それはそうでしょうね。
ファンタジーや神話でもいいんだけど、そういうものって広く世界を観る目とか、勘を養う。神話、なんかは生き物の規範を示している。
そういうものを知っている技術者なら、××のために、という目標設定をして技術開発をする。
けど、先鋭的な技術者というのは、技術革新を追求するだけで経験を伴っていなかったり、目標がなかったりするのよ。
そういう目標のない人を作らないために重要なことは、ガキのころにどれだけたくさんの生活体験を持たせられるか、ということになると思う。
そういう体験があれば、自分の研究が社会にどう反映できるかという「目標」を、実体のある体を持って想像できる人間を育てられるはずなのよ。

岡田:でも、現場ではそういう健全なやつはかえって役に立たないでしょう?
僕の経験上、現場では絵を描くしか能のないやつの方が、役に立つんですよね。

富野:そう、そういう現実も知っているよ。

岡田:後先考えずに開発してくれるからこそ、科学は発展する。
文民統制っていう言葉もあるぐらいですから、軍人が政治まで考えてしまうと、それは軍事政権になっちゃうよ、という言い方もできます。

富野:そうそう。結局、人はオールマイティにはなれない。
目標がない技術だけが売りの人も、健全なだけで現場では役に立たない人も、だからこそ愛しいのよね、かわいいのよねっていうところに結論は落ち着くわけ。
その不完全さを認めなかったら、本気で人を愛せないものね。


【「ガンダム」は認識レベルに到達できるか】

岡田:「ガンダム」は、百年続くだろうし、世界教養のスタンダードの一つになると思います。これは、どうしたもんでしょうね。

富野:先に言った二つの命題を今後つけ加えていければ、僕は百年か二百年は耐えうるスタンダードになると思いますね。
今はまだ、スタンダードに、なるとば口にしか立ってないような気がします。
つまりアニメとか画像とかの物語世界でのスタンダードであったものが、ある認識論のスタンダードになり得るかもしれないというところに「ガンダム」はきたと思う。
そのためには、さっき言ったように、まず、これはファンタジーなんだよ、これは神話なんだよっていうことを言い聞かせないといけない。
もう一つは、戦争みたいなものをここから考えるバカがいるものだから、そういう人に対しての歯どめをかけるためにはどうしたらいいのか、という命題。
これに対しては、「ガンダム」そのものの中に、この物語を認識論のレベルにまで持っていって、現実を理解するために役に立つ術にまで高めていくぞ、というメッセージを放り込んでおく必要があるんじゃないのかなと思いますね。
だから、あと二、三年でできるならば、こういう認識論のレベルまで見通した目線で作品を作っていきたいという希望はあります。
でもこれは僕の問題であって、「ガンダム」の問題じゃない。
反対に「ガンダム」の問題というのは、僕の問題じゃないのよ。
イエス・キリストが、二千年後のキリスト教の問題とか、ローマ法王の問題とか正教の問題を考えていたわけがないもんね。

岡田:そうですよね。彼は過激な、かなり先端的な革命論みたいなものを唱えていたはずですからね。

富野:つまりキリストだって一人の人格でしかなかった。だけど、人間というのは、一人の人格としてしか表現できないと思っているのよね。
神というのは人の上にある存在だね、というふうにとりあえず言っておく。でも、実際は我々日本人は神は知ら、なくて、仏様をいっぱい知っているんだよね。
だから、結局は神なんか知るか、ということになる。

岡田:とは言っても、みんな、「ガンダム」で感動した自分の心がある以上、「ガンダム」を創った人は、自分の感動に見合うだけ偉い人でなきゃ困るという像を富野さんに求めていますよ。

富野:だから、それはそれで作ってくれて構わないんですよ。

岡田:そうなんですか。

富野:というよりも、そんな像につきあおうとしたら、自分で自分のことが気持悪くなって、おれ自殺するかもしれないっていうことまで想像しますモン。
イデオロギーが語る正義があるというなら、「ガンダム」でしかつめらしい終末論をやるでしょうけど、そうしたらマルクスだのレーニンだのが共産主義を標梼していたのと同じような気がする。
これはひどい言い方かもしれない。
だけど、ソビエトでさえ百年もたなかったっていう事実がある。
知が先行したからこその問題はたくさんある。
だから、知は行使してはいけない、という考えにまで到達している部分はありますよ。

岡田:それは十八世紀からずっと続いてきた、合理的とか論理というものが人類全体を救える鍵かもしれない、という価値観のもとでの追究が、やっぱりだめだったっていうことでしょうか。
ちょっとずれるかもしれないですが、僕はこの二十年ぐらいが人類にとっての勝負だと思っています。
それなりに義務感があって社会的な責任感もあった人たちがつくった巨大な科学・社会システムが、全くそういう「社会的インフラへの義務感」を共有してない世代に引き継がれるこの二十年に、引き継ぎをいかにうまくするか。あるいは、引き継ぎを考えないで新しい方向を考えるのか。
この先の人類の存亡がかかった分かれ道だと思うんです。

富野:確かにこの二十年が勝負でしょうね。ところが問題があって、僕には、今の六十代、五十代の人が、それほど次の世代のことを深刻に考えてないように思えるんですよね。

岡田:それは、今の繁栄、安定が続くと思っているからでしょ。海を幾ら汚しても大丈夫と思っているように、文化も幾ら汚染しても大丈夫だと思っているし、人格とか祖先というものも幾ら汚しても大丈夫だと、まだみんな思っています。すごく危うい状況がありますね。

富野:そういう人たちは、地球が永遠だ、ということが前提にあるから、そういうふうに「幾ら汚しても大丈夫」と言っていられるわけでしょう。

岡田:でも、一方で、いつまで安定が続くのか、誰にも分からないことを疑っても、どうしようもないとも言えると思います。
「未来は素晴らしいに違いない」と言ってあげないと子供がかわいそうですよ。
俺、娘がいるから、もう地球はだめだとは言えないんですよ。

富野:僕もそうだよ。だから、「Vガンダム」を作ったんです(注・「Vガンダム」とは、1999年に放映されたテレビシリーズ。人間関係の相克を描いた悲喜劇で、富野演出の真骨頂と評される作品)。
あの作品で、しかつめらしい終末論を唱えることから逃げたんです。
だけど、一方で、永遠ではないと思っていることを伝えないのは、かなり卑怯じゃないか
なって気もしてるけどね。

岡田:「危ないかもよ」と言って、自分だけ安堵して後は任せるのも、大人の卑怯な逃げ口じゃないですか。
だから、唯一の策として考えられるのは、「大丈夫だよ」ってウソをついて、「おまえらも大人になったら、おれが何で大丈夫だよってウソついたのかわかるんじゃないの」って祈りながらバトン渡すことじゃないですか。
「危ないよ」と言って百人の内一人のまともな子供を育てるよりは、そうやってバトンを渡して、百人のうち八十人くらいフォローした方が大人じゃん、って今は思うんです。

富野:それはそうかもしれないね。

岡田:絶望的なことや、人間がだめだっていうことを書けば書くほど文学的だという価値観がいまだに続いていますね。
でもそれをやってる限り、表現者として大人じゃないと思うんです。
何でドストエフスキーが尊敬されるのかというと、クライマックスでみんなが知っている、当たり前のことをもう一回繰り返してくれるから。
それはプロレタリア芸術論に過ぎないかもしれないけれど、感動したものを創った人に、父性とか母性、つまり自分の親みたいなものを求めるのは人間の本性だと思うんです。

富野:あの時代の人たちは、嫌でも暮らしが社会性を帯びていたんでしょ?今のように、カプセルに閉じこめられたような生活とは違っていた。つまり、科学技術、家電製品がなかったために、嫌でも人の交流があった。
召使がいる、その召使がいる景色を見ている人と、召使を知らない、女中を知らない人とは、おのずと社会性が違ってくると思う。
だから、ここへきて、これに関して今度は全く逆のことが言えるんですよ。
今って作品を書くっていう行為のほとんどは、自分の悩みをわかってくれっていうところに帰結している。
だけどね、一万人、百万人に伝わる表現手法で作品を創らないとクリエーターとは言えないんだよ。
僕の悩みをわかってください、私の悩みはこうなんです、すごいでしょう、私の技術はすごいでしょうという幼稚なレベルで物は創るなと言いたいんですよ。
エゴと好みでは書けない、創れないんだよ、ということを、伝えたいんです。
だからなのよね。「ガンダム」では、ロボット・アニメではあっても、一般用語に転化できる物語は作りたかった、とは考えましたよ。


【現代の「ニュータイプ」のあリ方】

岡田:ですから、僕は「ガンダム」でニュータイプという概念が出てきてよかったな、と思っているんです。
さっき言ったように大人の義務として、子供にウソを言わなきゃいけない。
「あしたは大丈夫だよ」とか「安心して寝ていいよ」というのと同じように、「みんなこれからもっといい人になるんだろうからおまえも頑張れ」というようなウソを言わないといけないです。
そんなときに自分の中にニュータイプという信じられる柱があると、未来を信じたくなれる。

富野:本当にそうでしょうね。

岡田:だから、ニュータイプなんかないんだって、「ガンダム」を創った人が言うのはすごく嫌だったんです。
本当はないとしても、いったん大人の義務として言ったことを否定してどうするんだ、と思ったりもしました。
文化っていうのは表現であると同時に、責任とか影響力の行使ですから。
ドストエフスキーと同じですよ。
表現者は「父性」や「良心」の体現者を引き受けるしかない局面もあると思います。
だから、ニュータイプ論が、正義では割り切れない、世の中のある側面を救う術になると真面目に思っています。

富野:それはそう思います。
ニュータイプという言葉を創り出したときには、満足のいく定義ができなかった。
当時はそんな自分に対して、反吐が出た。
でも、十年ぐらい経って区切りができた時、ニュータイプとは、まさに全方位的に理解できる能力のことだと思った。
この能力を持った人間がニュータイプたりえるんだ、とね。
それから最近思っているのは「普通がニュータイプ」という表現ができる時代がついに来たんですね。
社会の大多数があまりにおかしくなっているから、ニュータイプの精神が普通になってしまう。
それに気づいた時、とういうふうに社会の認識を規定できるニュータイプという言葉はすごいな、と思う自分が今ありますよ。

岡田:今の時代、周りが変だからと言って、あなたが変になってもいい、ということにはならないということなんですね。

富野:そうそう。

岡田:それは現代の世評として、なかなか重たい話ですね。

富野:これだけ話をさせてもらった上で言えば、役職とか決定権を持っている人たちが、もうちょっとだけ当たり前に物事を想像してくれないのかな、という疑問を、僕は持ってしまいますね。
では、人は何を目指せばよいのか、どうすれば良いのかについて様々な議論があると思うんだけど、その辺のことをまわりくどく言わないためにニュータイプという概念があるんだよと、岡田君が言ってくれた。
ニュータイプを目指せ、というひと言で済むからね。
これは本当にありがたいことだと思う。
これがコモンセンスとして広まっていってくれればいいな、と思います。
「ニュータイプ」は難しい哲学が入っていることではなくて、誰にでも分かるレベルで、人間性の到達点として非常に高い目標を示せるから、とてもいい言葉だと思えます。
ここまで話してようやく、オタク文化とかサブカルだとかカウンターカルチャー、どれでもいいんだけど、結局現在のそれらを土台にした上で、二千年、三千年先までひとつひとつ積み上げていく何かがあってもいいのではないかと思いますね。
そう思いませんか。

岡田:ニュータイプという言葉を創ってくださってありがとうどざいますと、父親として今日は真面目に言えます。
本当にありがとうございました。



ライター:のぞき見のミホコ






otakingex at 18:00コメント│ この記事をクリップ!
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