FREEexなう。

2017年03月17日

作品は観客のもの!? 岡田斗司夫 流・映画の解釈法

11月20日(日) ニコ生 岡田斗司夫ゼミ のハイライトです。
岡田斗司夫の最新生放送はこちら⇒http://ch.nicovideo.jp/ex


今回は岡田斗司夫流の映画の解釈法について語ります。


 僕の映画解釈は、すべて僕の独断で出来ているんだ。
 監督インタビューとかもほとんど読まないし、あまり大事に思わない。

 なぜ独断で話をするのか?

 マンガ夜話をやってる時や『オネアミスの翼』を作っている時に発見したんだけど、「マンガは、作者のモノか?読者のモノか?」って考え方があるんだ。
 
 作者が見ているマンガっていうのは、紙の上に描いているインクの塊ではなくて、自分が「こんなふうに描きたかったもの」として見ている。

 なので作者のマンガ像というのは、実際の作品よりも必ずズレている。

 それに対して読者もマンガを見るんだけども、作品を見るときに自分の人生経験を測って、その上で作品を評するんだ。

 たとえば、借金ですごく酷い目に会った人は『闇金ウシジマくん』が辛くて読めなかったりする。
 そういう経験が無い人は、ただ単に「面白い話」として見える。

 つまり、読者によって作品は一つ一つ違う。
 これが「評論」というものが必要な、本質的な理由なんだ。

 人は感動すると不安になるし、心配になるんだよ。
 自分が「面白い」と思ったポイントが、他の人と一緒かどうか知りたくて仕方がない。

 だから僕らは、本当に感動したり面白い映画を見たら、真っ先に映画評論サイトとか、みんなのコメントを読んじゃうんだよね。

 なぜ「映画の評論」が必要なのか?
 それは感動は孤独なものであって、他人の感動を知る事によって、初めて連帯が発生するから。

 映画館が面白いのは、感動を全員が共有しているから。
 だから僕は「映画館に行って映画を見ろ」って言うんだよ。

 なので、作者が伝えたいモノと、読者が見ているモノは必ず違う。

 僕がそれを実感したのは『オネアミスの翼』って作品を作った時。
 その時の33歳の僕はバカで「作者が考える作品が正しい」と思ってた。

 「読者や観客は、作者の意図を見抜くのが正しい」と思ってたんだ。
 つまり、作家主義だよね。

 でも今の僕は、それを徹底的にバカにしている。
 
 他人に誤解されるような映画を作っておきながら、後のインタビューで「それは違うんですよ!」って言ってた自分が、すごいイヤだから(笑)。

 作品って、そう解釈されたなら、それで正しいんです。
 みんなの心の中で辻褄が合ってるなら、作者がそれを「違います」って言うのは恥ずかしい事なんだ。

 映画の解釈は、多様性があることが素晴らしいんだと思います。

 なので岡田斗司夫は独断で『風立ちぬ』を語りますし、『シン・ゴジラ』を語りますし、『君の名は。』を語るわけです。

 だから後で作者が「それは違います!」と言っても、「オレの解釈の方が面白いんだから、お前の負けだよ!」って思っちゃうんだよね(笑)。


*********************************************
この記事についての考察・感想は、“ほぼ”毎日更新しているオンラインサロン『岡田斗司夫ゼミ室』で問答しています。
みなさんの参加、お待ちしています!
         ↓
https://lounge.dmm.com/detail/103/






otakingex at 07:00コメント│ この記事をクリップ!

コメント一覧(新規コメント投稿は、上のFacebookソーシャルプラグインをお使いください)