11月20日(日) ニコ生 岡田斗司夫ゼミ のハイライトです。
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監督は片渕須直さん。
魔女の宅急便を下ろされた人、なんですね。
別に宮崎駿に下ろされたわけじゃないんですけどw
『魔女の宅急便』は片渕さんで進行してたんだけど、
スポンサーが、宮崎駿でないとダメだ、ってことで引き摺り下ろされて。
その時鈴木敏夫が、
「あんたは最後までいなきゃだめだよ」
てことで、演出補で参加してフォローしたと。
36歳で『名犬ラッシー』作って、41歳で『アリーテ姫』という遅咲きなんだけど。
それまで青春期の才能を、宮崎駿とスタジオジブリに吸い取られた、という僕的には不運の56歳。
ラッシー良かったんだけどね。
僕、娘が小さい頃一緒に見てたんだけど、
「うめえな~」と思いながら見てたから。
で、この片渕監督。
主人公のすずというキャラクターをずっと「すずさん」と
インタビューでも言ってるんだ。
それくらい実在するものとしている。
ひとえに、このすずさんっていうキャラクターを、
実在させる、信じさせるために、3つのポイントを立てたって言ってるんだね。
ひとつめは、徹底した現地取材。
広島の街とか、呉の街の現地取材がすごい。
これまでのアニメで、いわゆる聖地ってやつあるじゃん。
ある地方都市とかを、すごいちゃんと背景とか描いたので
「そこが聖地になりました」
というやつ。
申し訳ないけど、はっきりいってそんなのがバカみたいに見えるくらい、描写がすごい。
その時代にタイムスリップして行ったとしか思えないくらい。
だってもう存在しないわけだよ。
広島なんかさ、原爆で消えちゃった街だし。
呉もそうなんだけど、B29の爆撃でほとんど街が燃えちゃったんだ。
だから今はない、もう僕らが見ることができない街を、あらゆる資料を調べに調べて、存在させたんだよ。
その描写がものすごい。
なんでそこまでしたかっていうと、
ひとえに、ここにすずさんがいたんだ。
この橋の欄干を、さわったかもしれないんだ。
というのを観客に信じさせるための、膨大な取材なんだよね。
だからご飯の炊き方とか、竈の火のおこしかたとか、これまでジブリのアニメでもやったような描写あるんだけど。
そういうジブリの自然主義が、つまらなく見えちゃう。
なんでかっていうと、ジブリの描き方っていうのは、
風呂釜の炊き方、昔はこうだったんだよ、って子供に教える炊き方なんだよね。
昔はこうだったんだよ。
ほらほら手作りで素晴らしいでしょ。
という教える描き方なんだけど。
『この世界の片隅で』の描き方は、キャラクターの存在を信じさせるための描き方なんだ。
だからレベルがぜんぜんちがう。
たとえば『となりのトトロ』ってさ、トトロとかネコバスが空を走るシーンはすごいじゃん。
あれは、トトロやネコバスが存在していることを、宮崎駿が信じてるからだよね。
その信じてることを伝えるためだったら、宮崎駿のパワーが最大限出るんだけど。
昔の火はこうだったんだよ。昔の家庭はこうだったんだよ。
昔のご飯の作り方はこうだったんだよ。と教える立場になっちゃうと、急にアニメーションの熱量が下がっちゃう。
だから、キャラクターを信じさせるための、背景描写とか自然なアニメーションがとにかくすごい。
あとね、仮現運動。
これね、心理学用語なんだけど。
すずさんを現実化させるふたつめのポイントね。
仮現運動とは何かと言うと、
点がふたつ点滅して、交互に点いたり消えたりしていると、
人間の目には、これが動いているように見えて、残像まで見えてしまう。
こういう見えてないものを補完して、動いてるように見えるのを仮現運動と言うんだけど。
アニメーションの原理って、この仮現運動でできてるんだ。
監督のインタビューで、これまでのアニメーションは、ロングレンジの仮現運動でできている。
だから、中抜きというのが存在する。
中抜きっていうのはどういうことかと言うと、
原画で、大きい人間の動きをやった時に、
途中、動画で本来埋めるべきところを、わざと動画抜いちゃうんだ。
そうすると、スピーディに動いているように見える。
これの一番シンプルな例が、
『もののけ姫』のサンの戦いのシーン。
一番最初に、サンがエボシ御前と戦うところ。
ナイフを抜いてさっと腕を振る時に、
腕が伸びているところの腕を描かずに、
ナイフの先だけを、空中に描くんだ。
そしてここ(サンがナイフを自分の胸に引きつけているところ)は、
ちゃんと描く。
腕を伸ばしたところは描く。
ところがこの途中の空中、は腕を全く描かずに、
ナイフの刃だけを描くんだよね。
そうすると人間は、残像でこれが一瞬光ってるように見えて、
ここの動いている間を、脳が補完して見えてしまう。
こういうのを片渕監督は、ロングレンジの仮現運動と呼んでるんだ。
つまり、こういう大きい動きの仮現運動というのは、アニメーションではよくやられてる。
だから日本のアニメーションは、
フルアニメでぐねぐね動くのではなく、中抜きして、
アクションシーンがスピーディで、かっこいいと言われるんだ。
ところが、『この世界の片隅に』で使われたのは、
ショートレンジの仮現運動。
人間のものすごい細かい小さい動きを、
あえて中に作画をいっぱい入れることによって、
人間の目に残像現象を起こす、という実験をやってる。
それが冒頭の行李っていう大きい荷物を、すずが担ぐシーン。
ものすごいゆっくりした動きをやってるんだけど、めちゃくちゃリアルに動いているように見える。
あと動きが可愛らしいんだよね。
この辺のあえて、ロングレンジの仮現運動でなく、
ショートレンジの仮現運動やったというのは、
宮崎駿のアンチとも言える。
日本アニメのこれまでやってなかった領域への、挑戦とも考えられる。
作画の指示も、仮現運動の思想を徹底してて。
インタビューで監督が言ってたんだけど、箸を取るシーン。
日本のアニメは、ようく見てくれたらわかるんだけど、
お箸をとったら、次の瞬間もう、箸が正しく持てている。
これがふつうのアニメーションなんだけど、
『この世界の片隅に』では、
ショートレンジの仮現運動っていう思想でやってるもんだから、
ふつうのアニメではやらないことをやるんだ。
お箸を持ったあと、お茶碗を持ってる手で押さえて、持ち替えるじゃん。これが正しい箸の持ち方。
これをわざわざやってる。
そんなことやってるもんだから、アニメーションとしての表現がとんでもないところに達している。
だからアニメ好きには見て欲しい。
これがふたつめ。
ショートレンジ仮現運動思想による、アニメーションの新たな領域に入ってしまった、
リアリティの追求です。
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