FREEexなう。

2013年03月21日

【再掲載】富野由悠季の才能は黒澤明の十倍

岡田斗司夫デザインのメカが、「逆襲のシャア」で使われているのを、ご存知ですか?
「遺言」第三章に描かれているエピソードです。

CIRCUS
別冊「語れ!機動戦士ガンダム 」のインタビューで、

>機動戦士ガンダム」は すでに大人の教養である

と熱く語っている岡田ですが、ガンダムや富野由悠季に関する語りは、枚挙にいとまがないほどです。

今回はこのインタビュー記念として、あらゆるところに散見している岡田斗司夫の「機動戦士ガンダム論」「富野由悠季論」を集めてみようと思います。

というわけでFREEex6月は、なんと「機動戦士ガンダム特集」です(笑)

第一回は「遺言」第三章「会社としてのガイナックス、歴史概観」。


赤貧洗うが如くだったガイナックスに、「逆襲のシャア」のメカ設定というお仕事が、バンダイから舞い込んだ時のエピソードです。


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"富野由悠季の才能は黒澤明の十倍"

 八八年は『アップルシード』で経済的には一息つきつつ、『トップをねらえ!』に邁進しました。その結果、経営はますます悪化しました。


 予算は一話につき1500万だったけど、あのクオリティの作品がそんなお金でできるはずないのに。その時は予算の規模の大きさに目がくらんじゃったんですね。

 バンダイビジュアルの鵜之沢さんの口車に乗せられて、ひどい目にあいました。

「一話1500万円だから四話で6000万だよ。六話まで行ったら9000万だ、岡田君!」って言われて「あ、それは美味しいですね」って喜んでしまったんです。

 全部で9000万だろうと、とにかく三十分1500万には変わりないんですよ。朝三暮四のトリックに騙されたサル以下ですよね。

 でも会社に帰ってみんなに話したら、みんなも良かったって言ってくれたよなぁ。いま考えると、なんで騙されたんだろうね。貧乏で、心まで追い詰められていたのも一因かな。

 ちょっと話はずれるけど、この時期に手がけた他の仕事の話をしましょう。

『アップルシード』と、『トップをねらえ!』をやっている最中に、『逆襲のシャア』(一九八八)のメカデザインという仕事が舞い込んできました。これはサンライズを併合しつつあったバンダイが、ガイナックスになんか仕事やらないと、本当にあいつらら倒産しちゃうよ、という気遣いで回してくれた仕事です。

 最初は、主役メカ・ガンダムのデザインコンペだったんです。『逆襲のシャア』で、新しいガンダムのデザインを募るという。その中から良いデザインを選ぶシステムです。


 デザインは、本編で使わなくてもお金はくれるという約束でした。そこがガイナックス救済ということだったんですね。

 それまでのガンダム作品はコンペじゃなくて、大河原(邦男)さん(一九四七~。『機動戦士ガンダム』のモビルスーツをデザイン。日本初のアニメのメカデザイナーとしても有名)★とか、富野さんが指定したメカデザイナーがデザインしてたんですけど、いろんなガンダムを出したいバンダイが「今回からちょっとコンペをやってみよう」って事になったんですね。


 バンダイからその話が出たとき、富野さんは「ガイナックスという会社があるんですね」って。知ってるくせに知らない振りして「見たこともありません」って言ったそうです。嘘つけ!(笑)


 で、デザインの発注を頂きました。ガンダムのデザインと言ったら、当然庵野です。


「庵野君、ガンダムのコンペって話が来てるんだけど、どう?」って言ったら庵野が「やります」って言うんで任せたんです。


 ところが庵野君、締め切りギリギリまで引き延ばして、最初のガンダムにそっくりの絵を、安彦良和さんが描いたタッチそっくりに描いたんですよ。監督に出したら富野監督、涙を流して怒ったそうです。

「こいつは俺に何を言いたいんだ!」


 つまり庵野君のメッセージは「ガンダムは最初のガンダムで充分で、それ以外のものは作る必要もない」というネガティブなものだったんですね。

 僕にしてみれば、なんでそんなのを提出するのかワケがわからなかった。

 なぜあそこまでそっくりにガンダムを描くのか、情熱をもって描けるのか。富野さんが嫌いじゃないのになぜそれを出せるのか。さっぱりわかんない。

 ひょっとして「あえて苦言を呈す」みたいな気持ちがあったのかもしれないけど、あえて苦言を呈す人間があんなに嬉しそうに描くがないと思う。散々原画集見て、ほんとに嬉しそうに「安彦さんはこうだー!」って。

 それを見てなぜ富野さんが涙を流して怒るのかもよくわからなかったです。未だに聞けないんですよ。この間会ったときも「『逆シャア』の時はどう思ってました?」という話も出なかったぐらいですから。


 庵野のモビルスーツは没を食らったんですけど、メカデザインは採用されました。増尾(昭一)君がデザインした宇宙戦艦ラー・カイラムとか、富野さんが何故かOKを出しくれました。

 当時は『トップをねらえ!』症候群だったから、小沢さとるっぽい、流線型の宇宙船になっちゃってます。それでも、富野さんはそれなりに「これは使える」と思ったらしくて、リテイクを出してもらいながら一緒に仕事できたのが面白かったですよ。


 一点いくらという契約だったから、出せば出すほどお金がもらえたんです。だからみんな、我も我もって、競争みたいに描きました。


 僕まで、自分でデザインして出したんですよ。


「富野さんと一緒に出来る!」という喜び1/3、「ガンダムが作れる!」という喜び1/3、「意味ない設定も山ほど出せばその分金がもらえる!」という喜び1/3。


 しかも、僕のデザインまで採用されちゃったんです。これが、メカデザイナー岡田斗司夫の作品です。


 このギラ・ドーガの発進シーンを見ると、やっぱり富野さんはセンスいいなぁって思いますね。発進するとき、カタパルトの端っこに小さく人がいるというセンス、バツグン!かなわないなって思います。


 なぜかなわないかというと、あの位置に人間を置くことで、宇宙戦艦のスケール感が出るんですよ。スケール感を出すためには対比物が必要なわけです。大きさが実感できるものと対比して描かないと。大きいってわかんないですからね。


 そのために宇宙戦艦のブリッジに人を立たせるのはよくやるんだけど、そうするとブリッジ周りでしか巨大感は出ないんです。宇宙戦艦のカタパルト先端に小さい部屋、たぶん発令所をおいて、その部屋一杯一杯の人物を置くことで、急に宇宙戦艦の大きさが出ます。


 あとですね、ロボットの発進シーンって気を抜くと人間の演技がどんどん少なくなっていくんです。コクピットの中とブリッジの会話だけで演出が流れていきがち。


 でもあそこに窓があってむき出しの人間をちょっと置くだけで、発令所との会話もしなくちゃいけなくなります。

 ブリッジ・コクピット・発令所という三カ所で会話が展開すると、この宇宙戦艦の中には他にも色々人がいるんだなとわかるんです。


 ほんの一言会話があるだけでも、台詞のあるメイン・キャラクターだけがいるんじゃなくて、この戦艦には何百人も乗ってるんだなというスケール感が、そこはかとなく出るんですよ。

 そのツボを押さえられる富野さんって、やっぱり上手い。


 他の人はそれが出来ないのかっていうと、全然できないわけじゃないです。でも、ワンカットで表現するのは難しい。

『トップをねらえ!』にしても僕たちがやるとくどくど見せちゃうんですね。たとえば、宇宙船の中に通路をわざわざ描いて、そこに人がいることで他に人がいることを見せたり、ブリッジの背景に人がいることを見せたりするんです。


 富野さんは、今みたいに流れの中でワンカット入れて一言台詞言わせるだけで、そのスケール感をぐんと出しちゃうんです。そこら辺がうまい。三次元的な演出っていうか、人物の配列の仕方に特有のセンスがあるんですよ。


 十年くらい前、『モノ・マガジン』という雑誌で日記を連載していた時に、黒澤明が死んだという事件があった。で、その時の日記に「死んだのは悲しいけど、残念じゃない」という話を書いたんです。


 マスコミがこぞって「まだまだ作品を作れた」「残念だ」という大合唱だったので、本当に残念なのかな?という天の邪鬼な部分もあったんですよね。


「いま騒いでる人の何割が、黒澤明の次回作を待っていたのかな?」と気になっちゃうんですよ。『七人の侍』(一九五四)や『用心棒』(一九六一)に昔感動した人たちって、別に黒澤明の新作を待っていたわけでもないんですよね。『まあだだよ』(一九九三)を見たかどうかも怪しいのに、「偉大な才能を失った」「残念だ、残念だ」って大騒ぎする人たちが大嫌いなんですよ。


 本気で偉大な才能と思うなら、『まあだだよ』とか、『夢』(一九九〇)とか見てやれよ。黒澤明って、後期にも作品いっぱいあるんだから。最後まできちんと見るべきでしょ。


 でも、DVDにしても売れているのは『七人の侍』と『用心棒』。カラー時代の黒沢作品って娯楽性が低いから、好きな人は少ないんです。


 残念だけど、作家には旬があると僕は思います。


 でも作家というのは、ヒットすればするほど作る環境が整ってきて、発言力が増えていって、引退時期を見失ってしまうんです。


 それに、日本では作家が自分のことを作家とは思いたがらない。「自分は作家先生なんていう偉い存在じゃない。生涯いち職人だ」と考える人が多いんですよ。これは、日本人特有の謙遜と勤勉の美徳だと思うんですけど、ますます引退しないんですね。


 手塚治虫さんも、病室で最期まで原稿描いていました。


 これは美談であると同時に、一種の呪いなんですよ。漫画家としてデビューしちゃったら、仕事がなくなるまで描いてなきゃいけないし、仕事がなくなる事が死ぬより怖い。


 これがあらゆる漫画家が持ってる感性なんです。大ヒットを出したら引退して、優雅に印税生活なんて考えている現役漫画家は、一人もいないんですよ。


 今より少しだけ暇になりたいと思っている漫画家はいます。


 でも、あらゆる漫画家も映画作家もアニメーターも、多分小説家もそうだね。僕みたいな怠け者ですらそうだもん。死ぬまで働きたくてしょうがない。


 働けなくなった時や注文がなくなったときに飢え死にするのは美しいんだけども、引退なんかとんでもないと考えちゃう。死ぬまで作品を作り続けてしまう。

 しかも、年を取って発言力が多くなってくればくるほど、作品の作り方はある程度自由に出来ちゃう。すると、だんだん自分が作りたい作品ばかり作るようになってしまう。そう言えば聞こえはいいんだけど、世間と微妙にずれた作品になっていっちゃうんです。

 作家主義で見ると、世間とずれた作品になるのは悪い事じゃないです。その作家が本来目指す作品なんだから。


 でも作品ってやっぱりその時期の世界や観客と対話してなんぼのもんだと僕は思うから、対話を目指しているはずの大衆娯楽が、明らかに対話できなくなってる状態は不幸だと思います。

 そう考えると、黒澤明が死んだ事は、黒澤明の家族や、黒澤明の友達にとってはすごく不幸なことで、お悔やみ申し上げるんだけど、いち映画ファンとしては、あんまり残念じゃないなあ。って書いたんですよね。


 アカデミー賞ももらったし、もう充分作品は作ったんだし、とっくの昔に「常に最新作を作り続ける」という呪いから解き放たれてもしかるべしだったんだから。


 でも、ここで悪い癖で筆が滑っちゃって、「二十世紀の才能としては富野由悠季の方が黒澤明より十倍くらい才能あるよ」って書いちゃったんです。そしたら映画ファンはともかくアニメファンにまで叩かれた。

 いや、僕は本当に全盛期の黒澤明とガンダム時の富野由悠季を比べたら、圧倒的に富野由悠季のほうが才能があると思ってるんです。


 アニメファンなんだったら、それぐらい見抜いて欲しかったよなぁ。「そんなに黒澤明ファンがいるんだったら、なんでガンダムの十倍、黒澤明作品は売れてねーんだよ」と思うんだけどね。


 話がずれました。言いたかったのは「黒澤明より富野さんの方が十倍すごい」と僕が言う理由です。

 さっき言った「三次元的なキャラクター配置」ができる作家を、彼以外に僕はいまだに知らないです。誰もできないんですよ。

「三次元的な」と言うのは空間的な配列を指しているわけじゃありません。


 ドラマの中で、どういうタイミングでどのキャラを出すかによって、観てる人間の心の中でどういう印象が組まれていくか、それを計算して立体的に構成する描き方ということです。


 普通、人間関係は一対一の線的な関係とか、三角関係という面的な関係で描かれます。冨野さんはそれだけじゃなくて、時間という要素を組みこみながら演出するんです。


 映画内に配置するのなら、まともな監督なら誰でもできるでしょう。でも富野由悠季は「登場するキャラクターの脳内」に他の人物への思いを作ることができる。


 たとえば砂漠を放浪してる時のアムロだったら、ブライトに叩かれた頬の痛み、ミライへの裏切られた思い、フラウ・ボウへの後ろめたさやリュウへの甘えられない感情。その他ランバ・ラルやハモンへの共感と敵意など鬱屈・矛盾した感情を持っている。出会ったタイミングや関わりの強さによって、アムロの心をいろんな方向から三次元ベクトルのようにそれぞれが引っ張ります。


 僕らがガンダムを見て、アムロに共感できるのは、そのアムロの脳内三次元ベクトル群を、そっくりそのまま自分の心中に再現できるからです。だからアムロがホワイトベースにも帰れず、行くあてもなく砂漠にこもっている気持ちが「分かる」。


「分かる」というのをこのレベルで観客に伝達できるのは、それもあれだけ複雑な設定や戦争という状況下で、「子供向けアニメ」という制限の中で仕上げてくる富野由悠季という作家の才能の巨大さに、僕は感動するわけです。


 黒澤明は、優等生だけど天才じゃないというのが僕の持論です。


 妥協しない、完璧主義者と言うのは、優等生だから出来ることです。


 富野由悠季は、妥協しまくって『ガンダム』や『イデオン』が作れる。あの底力の恐ろしさに比べたら、完璧主義なんてお坊ちゃまですよ。天才の差はそこだなと思うんです。


 だから、爆笑問題の太田さん★が「黒澤明は凄い!」って言っているの見たら「黒澤が分かるぐらいには映画がわかってても、まだガンダムが解るほどには大人じゃないんだな」と思っちゃいます。ごめんね、太田さん。


 僕の中では、富野由悠季は未だに正当に世界に評価されてないんですよ。


 世間での評価も不当であるなら、それ以上にアニメファン内での評価も不当だと思う。作詞家としてもすごい才能を持ってるんだけど、これまた評価されていない。


 アニメ夜話の公開収録で新潟行ったときも、『イデオン』の話が出る訳です。そしたら、それを見た人がブログで語るんです。「トミノ御大の作品だから、いずれ見なくてはいけないけどまだ未見である」って書き始めるわけです。


 トミノ御大という言い方を、富野ファンはよくするんですよ。そう書くからには、この人はガンダムとか富野さんが好きな人です。「富野さんの発言を私はウォッチングしてますよ」もしくは富野ファンの間のジャーゴン(業界内用語)を私は使えますよ、みなさんの仲間ですよというサインです。


 そんなヤツが「トミノ御大の作品であるイデオン(『伝説巨神イデオン』。一九八〇)を未見であるが」って書いてるんです。何をえらそうに! もっと恥ずかしそうに言え、てめぇ!


 だって『イデオン』だよ? どのガンダムが一番好きかとか、そういう好みの差があるのは認めましょう。たとえ、『ダブルオー』が好きだろうが、『SEED』が好きだろうが、人間は平等であると法律で決められている以上、責めはしません。


 でも、トミノ御大って賢しらに言っておいて、未見であるという作品が『イデオン』って、お前それ正気ですか?


「未見であるが」ってブログに書く暇があるんだったらTUTAYAに行けよ!




筑摩書房 「遺言」 
第三章 会社としてのガイナックス、歴史概観 より
「富野由悠季の才能は黒澤明の十倍」P158~P164

講演映像 岡田斗司夫の『遺言』第三章 #06  

CIRCUS別冊「語れ!機動戦士ガンダム のインタビュー・ノーカット版 特集もお楽しみください。
 



ライター:のぞき見のミホコ




otakingex at 07:00コメント│ この記事をクリップ!

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