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2013年04月08日

岡田斗司夫の近未来日記 250回「MANGAを作った男」2

250_2当時のアメコミ業界は日本のマンガを見下し、ハリウッドは日本のアニメを視野に入れてなかった。なによりもマンガやアニメは子どもの文化、12歳になったら卒業して、アメフトやバスケや野球などの「正しい米国少年文化」に切り替えるべし、という圧力がすごかった。日本人は気軽に「個性豊かな欧米教育と違って、日本の教育は画一的だ。周囲との同調圧力もすごい」とか言うけど、そんなのウソだ。
週刊アスキー2013 4/16

250_1 日本のマンガやアニメが海外でヒットするようになって久しい。しかし、その過程は決して自然発生的なものではなかった。
 
 明治時代、日本の西洋化に福沢諭吉が貢献した。哲学・経済・政治などの概念をあらわす熟語はかなりの部分、福沢の発明だ。彼無しだったらひょっとして僕たち日本人は「フィロソフィー」「エコノミー」など英語をそのまま使っていた、つまり母国語で考える習慣を失っていたかもしれない。

 歴史は必然で動くけど、その変換期には英雄が誕生する。マンガをMANGAにした男、トーレン・スミスもそんな「知られざる英雄」のひとりだ。

 当時のアメコミ業界は日本のマンガを見下し、ハリウッドは日本のアニメを視野に入れてなかった。なによりもマンガやアニメは子どもの文化、12歳になったら卒業して、アメフトやバスケや野球などの「正しい米国少年文化」に切り替えるべし、という圧力がすごかった。日本人は気軽に「個性豊かな欧米教育と違って、日本の教育は画一的だ。周囲との同調圧力もすごい」とか言うけど、そんなのウソだ。アメリカの少年にとって「イケてるアメリカンボーイになれ」という同調圧力は僕らの想像以上。だからハリウッドも出版界も徹底して「12歳以上向けのアニメやマンガ」の可能性を否定した。トーレンが活躍した1980年代後半とは、まだそんな時代だったんだ。 

 アメリカでの偏見もすごかったけど、日本でのトーレンはもっと苦しかった。ダークホースなどのアメコミ振興出版社の同意をやっと取り付け、トーレンは片端から日本の出版社に契約を申し込んだ。しかしどこも返事は「保留」。ノーとすら言わないから,トーレンはひたすら返事を待つしか無い。自分の貯金だけで滞在費のバカ高い日本に住む彼にとって、これがどんなに残酷な仕打ちだったかわかるだろうか?   
 出版社の偉いさんは,トーレンの話を喜んで聞く。日本のマンガが海外で売れそうだ、きっと日本以上のファン層を獲得する。彼らにとって耳に良い「最新西洋事情」だ。しかし、いざビジネスとなると彼らはみんな躊躇した。トーレンがなんの実績も無い若者だから。出版先がマーベルやDCといったアメコミ大手では無く、イクリプスやダークホースと言った新興会社だったから。

 日本の出版社の偉いさんにしたら、わざわざ小さな出版社に許諾する意味が無い。もし数ヶ月後に講談社や集英社が大手と契約して海外でマンガ出版したら?そしたら上司や周囲から「なぜ待たなかった?なぜ小さな会社と契約した?」と責められるかも知れない。 

 こんなつまらない理由でトーレン・スミスはまる一年をムダにした。だから僕と出会って「とりあえずウチに住めよ」という話になった時、彼は「また日本人の外交辞令だ」と思ったそうだ。

 1987年の夏、トーレンは『オネアミスの翼』が終わって虚脱状態のガイナックスにやってきた。


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