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2013年04月01日

岡田斗司夫の近未来日記 249回「MANGAを作った男」1

249_2一年後、僕がふたたびトーレンと会った時、彼はもうあきらめかけていた。カナダとアメリカで貯めた貯金は底を尽き、ガイジンハウスに払える家賃も滞在費もない。SF大会に来たのも大翻訳家・矢野徹さんにメシをおごって貰うためだった。
週刊アスキー4/30増刊号

249_1 MANGAを作った男が死んだ。男の名はトーレン・スミス。カナダに生まれ、地球の反対・日本のマンガに出会い惚れ込んで、コネやツテなにひとつなく日本にやってきた。1986年の夏、僕とトーレンは大阪のSF大会ではじめて会った。
「日本のマンガをアメリカで紹介したいデス」と気弱そうに彼は語った。

 気弱そうに聞こえたのは日本語が苦手だったから。クイーンズ・イングリッシュで話すトーレンはものすごいタフ・ネゴシエーターで、その後僕がルーカスフィルムやユニバーサルと交渉する時に代理人を務め、ケンカ寸前までの駆け引きで驚かせてくれた。

 ともかく、当時のトーレンは日本語がダメで、でも日本マンガが大好きで、その翻訳権や出版権を求めて日本に来た。ガイジンハウスと呼ばれる狭くて高いアパートに住み、出版社にポートフォリオを持っていってはお茶だけで追い返される。そんな日々が一年も続いたそうだ。自炊嫌いで、でも外食する金もないトーレンは、貯金で巨大な業務用チョコレートを買い、それで一年間食いつないでいた。「単価あたりのカロリーではチョコがもっとも安上がりだ」とか言ってたけど、あれいま考えたら絶対に単なるワガママだったよなぁ。

 一年後、僕がふたたびトーレンと会った時、彼はもうあきらめかけていた。カナダとアメリカで貯めた貯金は底を尽き、ガイジンハウスに払える家賃も滞在費もない。SF大会に来たのも大翻訳家・矢野徹さんにメシをおごって貰うためだった。
 いまだに、なぜ僕があの時トーレンに親切にしたのか覚えていない。国や立場は違えど、オタクとして「大人の業界」にケンカ売ってるトーレンに、当時のガイナックスや自分を重ねたのかもしれない。気がついたら僕はトーレンに「いますぐウチに来い。何年でも住んでいいから、その仕事を続けろ」と言っていた。

 トーレンも信じられなかっただろう。一年前に一回会っただけの、どう見ても自分と同い年ぐらいの頼りない男が、それまでの境遇から引っ張り上げてくれるなんて。しかしトーレンはすぐに三鷹のガイナックス合宿所・通称「ガイナ荘」に引っ越してきた。僕は勝手にガイナ荘にヘンなガイジンを入れた、とあとで住民たちに怒られた。
「ウチに来い、というなら岡田さんの部屋に住ませればいいのに」「エエやんか、どうせ部屋空いてるんやから」という水面下の言い争いも知らず、トーレンの第二期日本生活がスタートした。

 同時にガイナックス内で「トーレン・スミスに日本語を教えよう教室」も開講された。マンガの翻訳を出したいんだから日本語ができないとダメに決まってる。週二でトーレンを特訓するため、僕たちは手作りの教科書まで作った。

 しかし、ここでもチョコの一件のようなトーレンのワガママが爆発。「私はもう日本語を話せなくてもイイ!」と言いだした。

 日本語も話せないのに、どうやって講談社や小学館に交渉に行くつもりなのか?


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