演出っていう作業はよくわかんないんです。山賀君というのは背景を描く人。庵野君はメカや爆発や煙を描く人。赤井君は女の子やキャラを描く人。それだけです。
7月のニコ生シンクタンク(7/26 22:30 ~)では、赤井孝美監督との対談が予定されています。
これを記念して、公式ブログで【赤井孝美特集】を組みたいと思います。
日本初の育成シミュレーションゲーム『プリンセスメーカー・シリーズ』の生みの親としても知られる赤井孝美監督は、知る人ぞ知る「ダイコンの女の子」の生みの親でもあります。
『DAICONⅢオープニングアニメ』『DAICONⅣオープニングアニメ』は、あの時代のオタクたちを熱狂させると同時に、アニメ業界を震撼させました。
現在も第一線で活躍し続けている山賀博之、赤井孝美、庵野秀明は、当時、大阪芸大の仲良し三人組でした。岡田斗司夫は、学生時代に彼らと出会うことで、初めて「アニメーションのプロデューサー」を経験することになります。
今は昔、30年以上も前の物語です。
【赤井孝美特集】第一回は出会い編。
『遺言』第一章『山賀博之、赤井孝美、庵野秀明との出会い』をご紹介します。
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山賀博之、赤井孝美、庵野秀明との出会い
僕が初めて作った映像作品は『DAICONⅢオープニングアニメーション』です。
大阪でやるコンベンションの三回目。だから「DAICINⅢ」。
そのコンベンションに開会式で上映するために作ったアニメなので『DAICONⅢオープニングアニメーション』なのです。
「えー皆さん、遠い中、大阪まで今回のSF大会にお集まり下さいましてありがとうございます。歓迎の気持ちをこめて、オープニングにアニメを自分たちで作ってみました」と言うのが『DAICONⅢオープニングアニメーション』なんです。
イベントの正式名称は「第20回日本SF大会DAICONⅢ」。開催は、一九八一年八月。僕が二十三歳の時のことです。
これが実質上、僕たちの映像作品デビュー作です。
開会式で自作のアニメーションを上映したことなど、世界のSF大会の歴史上それまで一度もありませんでした。普通はSF作家の先生のごあいさつや開会宣言などで幕を開けるものだったのです。
まずはその、きっかけからお話ししなければなりません。
その前に、僕たちがSF大会を主催するようになるにも、さまざまなドラマがあったのですが、そこは後に譲るとして、ようやく次の夏の大会は、大阪の僕たちがやるのだというところまでこぎつけたところから、話を始めましょう。
ようやく順番がまわってきた大阪でのSF大会。何とか、でかい顔をしている東京の連中を、あっと言わせたい。気持ちばかり焦っていた僕たちは、当時、スタッフ集めに奔走していました。
そんな時に紹介されたのが、後の日本オタク文化をしょって立つ「山賀博之」「赤井孝美」)「庵野秀明」大阪芸大三人組です。紹介者は、すでに知り合いだった永山竜叫君。
「庵野秀明って変な奴がいる。こいつは、トーストさえ食わせればいくらでもロボットの絵を描く」「赤井孝美って奴がいて、こいつもコーヒーさえおごれば、いくらでも女の子の絵を描く」と言うんです。
「それはおもしろそうだ。でも、永山の話は大げさなことが多い。本当にトーストやコーヒーでいくらでも描いてくれるのか、面接をしてみよう」ということになりました。
最初の面接に僕は行かなかったんですけども、京都の喫茶店で面接した人に後で話を聞いたら、衝撃的だったようです。打ち合わせの最中に庵野秀明は、ダイエーの計算用紙の端っこに、複雑なロボットの絵をさーっと描き始め、あっという間に四、五枚描いたと思ったら、ぱらぱら見せると動いて見えたと言うんです。
このロボット、正確に言うと『宇宙の戦士』というアメリカの人気SF小説に登場するロボット型宇宙服の「パワードスーツ」は、ものすごく線が多く、複雑な形をしています。
そっくりに描くだけでも大変なのに、動かしてみせた。
小説の挿絵でしか見たことがないパワードスーツをアニメにできるやつがいる! これは使うしかない!
僕たちは盛り上がりました。
後で聞いてみると、庵野君達も全く同じような話を前日していたようです。
「どうも明日、大阪から俺たちをスカウトに来るらしい。俺らは大阪芸術大学で貧乏学生やってるんだけど、なんとかして能力がすぐれているということを見せねばならぬ。庵野、切り込み隊長になって、パワードスーツでも描いてみてはいかがか」みたいな話になって、盛り上がっていたらしいのです。
で、僕のとこに話が回ってきたわけです。
「すごいヤツがいるんです。とりあえず何か一緒にやりましょうと誘っておきました。岡田さん、何をさせましょうかね?」
その当時、僕は自分が正面切って出るのがすごくイヤで、SF大会のスタッフとしても、実行委員長どころか役員もやっていませんでした。大学の先輩も大勢いましたので、スタッフとして公式には中の上くらいのポジションだったと思います。
でも、圧倒的な権力は握っていて、内容はすべて僕が企画して決めていました。
指示は出すけど正体は出さない。責任者は誰かにやらせて、後ろでニヤリという黒幕タイプです。
ガイナックスの現・取締役の武田(康廣。一九五七~)さん、ガイナックスのもと社長・澤村(武伺。一九五九~)君と三人で巨頭体制を作っていました。特に企画内容に関しては、僕の独裁体制だったと言えます。
だから京都面接のあと、「岡田君、こいつらでなんか作ってくれ」と実行委員長の武田さんから話がまわってきたわけです。こんなおもしろそうなことを断るわけはありません。
「はーい、了解、了解。やりましょう!」と、ふたつ返事で引き受けました。
このときの僕の映画に関する無知さ加減というのは、まぁーすごいものでした。
今でこそ、芸術系大学で教授と呼ばれて、十九、二十の学生たちに「君らこんな事も知らないの?」と偉そうに言ってるんですが、自分が二十一歳のこの時「監督というのが何をする人か」も知らなかったんですよ。
「映画って、カメラが回っていて、前で人が演技してたら、出来るんじゃないの?」くらいに考えていたんです。
アニメだったら、監督なんていなくても、絵を描く人がいれば出来るじゃないかと思ってました。
監督って人が何をするのかもわかんない。
当然、演出も、プロデューサーも、どんな役割をするのかわかんない。オープニングアニメで、僕はプロデューサーってことになったんですけど、プロデューサーの役割が何か、結局わかんないままだったですね。
じゃあ、大阪芸大の三人組、庵野・赤井・山賀は映画の役割を知っていたのかというと、そうでもなかったんです。大学で一応、知識として習ってはいるし、実習制作もやってるんですけど、深く把握している訳じゃありませんでした。
『DAICONⅢオープニングアニメ』だけじゃなくて、DAICONFILMというアマチュア映画制作グループになってからもずっと、監督とは何か、プロデューサーとは何か、演出とは何か、という仕事の仕分けどころか共通言語すらないままに、僕らは突き進んでいました。
さすがにプロになって、二作目『トップをねらえ!』(一九八八)くらいからようやっと僕らも監督とは何かがわかってきました。というより、各スタッフの役割や権限を意識的に分業するようになってきたんです。そうでないと、プロとして効率よく仕事ができませんからね。
でも、この最初の『DAICONⅢオープニングアニメ』っていうのは、そういう意味で、まったく分業せずに、効率は悪いけど、各スタッフの才能を自由にぶちこむ形で、がむしゃらに作り上げた作品なのです。
もちろん、作業は分担していました。
タイトル・クレジットではメカ作画監督が庵野秀明、キャラクター作画監督が赤井孝美、演出が山賀博之、僕はプロデューサーということになっています。
でも、演出っていう作業はよくわかんないんです。山賀君というのは背景を描く人。庵野君はメカや爆発や煙を描く人。赤井君は女の子やキャラを描く人。それだけです。
山賀君は演出だと言ってるけど、いつも穏やかでにこにこしているだけの気がする。庵野君が絵コンテの秒数を決めてるので、彼が演出かな。
でも、監督って偉いはずなのに、赤井君がよく庵野君に説教してるよな。
赤井君が一番えらい気もするなぁ。庵野君年がら年中怒られてるよ。
みたいな人間関係しか見えてこないんですね。
実質的には、誰々が監督とイニシアチブを取ることなく、共同作業でやってきたってのが本当のところだと思います。
ライター:のぞき見のミホコ