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2012年06月19日

【ガンダム特集】「ガンダムの話なんか意地でもしないもんね」って言うんですよ、富野監督は。

『西崎さんや富野さん、宮崎さんや庵野くんの「裏話」じゃない。 彼らの「英雄譚」を語りたい。
岡田斗司夫は、「遺言」第4章執筆当時、日記にそう記しています。


「ガンダム特集」今回は、この日記に書かれている「遺言」第4章からご紹介します。
岡田斗司夫と富野監督との初対談。「オタク学入門:文庫版」解説用でした。
テーマはもちろん「ガンダム」。

富野さんは「俺は『ガンダム』の話なんか意地でもしないもんね」と言うんですよ。
本当に口でそう言うんです、あの野郎は。六十越えてるのに。


・・・岡田、ピンチです!(笑)

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富野由悠季のものすごいヘンさ

 富野さんと初めて会ったときも、僕はどんな人か全然知らなかったんです。当時、アニメ誌はいいことしか書かないんです。「天才・富野監督」とか「富野さんが熱くアニメの未来を語ってくれた」とか。

 今みたいに「トミノ御大の妄言がまた始まった」とぶっちゃけて書いたり、富野さんのエッセイ集出すときに、禿げた頭の写真使ったり……。

 誰もそんなひどいことはしないんです。富野さんを尊敬出来る、理想の父親像として祭り上げようとアニメ雑誌全員が頑張って、持ちあげるばっかりなんです。負けそうになっている太平洋戦争を、なんとか勝っているように日本国民に見せかけるような努力というか気遣いというか。

「ミッドウェーですごい敵戦艦にダメージを与えたぞ(うちはその十倍やられたけど)」みたいな感じで、前半だけいって、後半は言わないみたいな感じです。
「富野さんは熱く語ってくれた」

 たしかに熱く語るんですよ、あのおっさんは、いつも。

 その語る内容は問題があるからほとんどカットされる、という事実はあんまり伝わってこないんですよ。ただ、噂だけは伝わってきて、「富野さんは相当変な人らしいよ」と聞いてはいたんです。

 この間、富野さんと僕は初めて対談したんですよ。それまでも、会って話したこともあるし、普通に世間話もする仲ではあります。

 それどころか富野さんは会うと俺の尻か腹を触るんですよ。

 一緒のエレベーターに乗るときは、絶対に僕のお尻を触るんです。僕がお尻を富野さんに向けないときには「うーん、岡田君、おなかじゃん」とか言って、お腹を触るんです。お腹を触られるほど親しくないですよ。本当に。単なる仕事のつきあいですから。

 皆さんが思ってるほど「アニメ界はツーカーの仲」じゃなくて、あんがい男同士、大人同士がビジネスとしてやってるんです。でも、富野さんはその塀を軽々越えて、「おなかぁ」とか言って触ってくるんです。

 これが、僕が昔から疑ってる「富野由悠季オネェ疑惑」の根拠ですね。

 根拠のもう一つに、喋るときに体をくねくねさせる、変にマッチョなことをいう、というのもあります。「男はフンドシがすべてよ」とか言うんです。その「よ」がランバ・ラルの「戦場は風よ」とかの「よ」じゃないんです。「そうなのよぉ」とか言うときの「よ」なんですね。

 ま、おネエかどうか定かではないですが、変人であることに間違いはないです。

 人のお尻だのお腹だのを触る割には、自分に嫌な話題を振られたとき「アニメを馬鹿にしないでいただきたい」とか言うんです。

 態度、違いすぎ。勝手なおっさんです。

 たとえば「富野さんってどんな人ですか?」と他の人に聞いてみると、全員言うことが違うんですよ。庵野君に聞いた時と、板野さんに聞いた時でも、全然違う。それだけじゃなく、聞くたびに違う。毎週のように違うんです。

 板野さんなんか、富野さんと親しいから、富野ジジイって呼ぶんですけど、その人にきいても違うんです。

 そこから赤井君が下した結論は、「富野さんはAB型ですから」。

 それだけで赤井君は説明してしまうんですけど。つまりA型のまともなところと、B型のすねたところがいつもブレンドされてるのが富野さんである。そのブレンド具合が良いように出れば、人懐っこく「んん、もう岡田君のおなかぁ」になるし、すねたように出れば、「そんなことは言わないでいただきたい」になっちゃう。すっごく変な人なんすね。

 この前の対談で、僕が会場に二十分くらい遅れたんです。中央線が遅れたおかげで。

 対談会場は新潮クラブっていう一軒家でした。新潮社の本社ビルの近くに、対談とかインタビュー用のすごく立派な一軒家が建てられているんですよ。老舗の出版社っていい物件もってるんだなぁって感心しました。

 そこの坪庭付きのかなり豪華な応接室が対談会場だったんです。一泊六万とか十万とかするような旅館も見たことはあるんですけど、そういうレベルではないほど高そうな部屋です。

 調度類もいかにも金が掛かってそうという。そういう豪華な部屋にあわてて飛び込んだら、雰囲気が暗い。編集者が三人、書記する人とかテープレコーダー回す人とか写真撮る人とかで、十人くらい出版関係者がいるんですけど、全員がうなだれてるんです。

 僕が入った瞬間、「遅くなりまして」と挨拶する間もなく富野さんが「遅い! もう終わった!」って。対談で、もう終わったって言われてもねぇ。


 対談が始まると、富野さんは自分が『ガンダム』の話なんかいかにしたくないのか、っていうのを延々語るんです、でも、今日のタイトルは『ガンダム』なんですよ。じゃあ、仕事受けるなよ! 多分受けたときはA型だったんですよ、怒ってるときはB型なんですよ、すねてるときは多分、彼の真骨頂のAB型だと思うんですね。
 ほんと、不思議な人でしたね。

 対談のスタート位置で、すねて怒っている富野さんをなだめられるかと言うと、僕はそこまで猛獣使いじゃないです。それに対して出来ることは、僕も同じくらいケンカ腰になるだけです。怒っているのをなだめようとしたら、いつもの富野由悠季パターンになっちゃうんです。「怒る→なだめる→説教する」というパターンです。

 説教でも対談に使えるならいいんですが、「最近の地球はこれでいいと思うか」という説教なんです。昔の富野さんは違ったんですよ。「最近のアニメはこれでいいか」だったんです。それならまだいいですよ。

 でも、年を追うごとに「最近のアニメファンこれでいいか」「最近の若者これでいいか」「最近の日本これでいいか」と規模が大きくなっていくんです。

 で、平成の十五年を越えるころから「最近の地球これでいいと思うか」までいっちゃったんです。地球規模だと、昨日今日じゃなくて四十億年かかってるものですからねえ。

 対談の意図とまったく違う話になっちゃうのは分かりきってるんです。

 僕が座って「じゃ、すいませんけど話しましょう」と言った瞬間からエンジンがかかったらしく、「最近の地球はこれでいいか」説教を始めました。

 僕は、「そんな話は置いといて」と本題に戻そうとするんですけど、富野さんは「俺は『ガンダム』の話なんか意地でもしないもんね」と言うんですよ。本当に口でそう言うんです、あの野郎は。六十越えてるのに。

 そのくせ途中で「大体、ビームサーベルっていうのは、『スター・ウォーズ』より俺が考えた方が早かったんだから!」とか言い出す。

 語るなぁ、じじい! いや、面白かったですよ。

 富野さんの発言では、ビームサーベルはアニメのガンダムで表現されているようなものじゃないそうです。僕も聞いてなるほどなぁ、と思いました。
「岡田君の本を読んでいて、『スター・ウォーズ』のライトセーバーから影響を受けて『ガンダム』のビームサーベルが生まれたって書いてある。違う! 僕のほうが早かった!」っていうんですよ。

 松本零士さんと西崎義展さんのような、著作権をめぐる「俺が先論争」とは違う話です。これを聞かない手はありません。

「ビームサーベルはああじゃない。切っているときだけ光らないと駄目だ。でないと秘密兵器じゃないだろ」
 そう言えば、ビームサーベルって秘密兵器なんだよな。

 連邦軍がモビルスーツを作っているということ自体が秘密なんですよね。『ガンダム』は慎重に見ないといけません。今の『ガンダム』情報があると連邦軍もジオン軍もモビルスーツを作っていてロボットが戦うのがすごく当たり前だと思ってますよね。

 でも、最初の『ガンダム』が放映された第一話の時点では、ジオンにモビルスーツと言うものがあるらしいが、それの戦闘力もよくわかんない。

 コロニーの中という擬似重力がある中での戦闘も歴史上初めてならば、地上で戦うのも初めて。それどころか、連邦軍とジオン軍のモビルスーツ同士が戦うというのは、開発した科学者も想定していない事態なんですね。

 それぐらい、初めて、初めて、初めてのレアケースの頂点みたいなものが第一話のあのザクとガンダムの衝突なんですよ。

 僕たちは、その後の『ガンダム』の歴史が頭の中にすでに入っちゃってるから、ついついそういう認識が薄いんですよね。

「おお、ガンダムとザクとの戦いだ」「初めての戦闘だ」「アムロの初戦闘だ」とか思ってみちゃう。
 
連邦軍も「あれがジオンのモビルスーツか」と言っています。台詞としては聞いているし、情報として第一回目の戦闘だとはわかってもいるんですけど、「初めて目撃した!」というドキドキ感とか、「ええっ? 何が起こるんだろう」みたいな気持ちはもう持てなくなっています。

 でも富野さんにはその時自分が思いついた「凄い!」という気持ちが、いまだに心の中にあるんですよ。ガンダムの歴史では、ロボット兵器を笑われながら作った軍隊があった。なぜかというと、戦争が無重力圏という宇宙空間で行われるからこそ、ロボットで戦争出来るというとこに気がついた奴らがいたからです。

『ガンダム』のストーリーでは、この時点「ルウム戦役」で、歴史的な戦術変換があったと設定されています。富野由悠季だけが、他人からなんと言われようと、その歴史が頭の中にきっちりと入っていたわけです。

 「ルウム戦役」で宇宙戦闘の歴史を変えてしまった新兵器、それがモビルスーツ・ザクです。対する連邦軍はなんとかそれに対抗できる兵器を、ジオンに知られないように開発します。

 それこそガンダム、白銀に輝くメイド・イン・地球連邦のモビルスーツです。

 秘密兵器として肩に棒みたいな物が刺さっているのが見えます。これに気がついたとしても、相手はおそらく銃みたいな物だろうと思うに違いない。ビームライフルを出しただけで、その瞬間ジオンが驚くくらいです。ビーム兵器をモビルスーツが運べるくらい小型化するなんて不可能だと思っていたからです。

 そんな時代だからこそ「肩から棒を抜いたら、これが剣みたいに切れる」のは、物凄く意外なことなんです。

 富野さんが言うには、「それが、最初から光ってちゃ駄目だろう。百メートル先からでも「あれに切られたらやばい」と分かっちゃう。秘密兵器として意味が無い。

 そうじゃなくて、ガンダムが抜いた瞬間にちょっと光るくらいならいい。ザクが何も知らずに突進してきたときに振る。振ったら、ザクにあたった瞬間だけビュっと光る。

「ビームサーベルの光も、実はあんなに太くては駄目で、作画の限界まで細い光じゃないと。ザクをシュっと切らないと駄目なんだ!」と、富野さんは言うんです。

 僕はそれを聞いて「カッコいいー!」と思って「なんでそうしないんですかぁ!?」と愚かにも聞いてしまったんですよ。当然、富野さんの「岡田ちゃん、それはね」って説教が延々続く、続く。

「みんな馬鹿だ、アニメ作ってる奴は馬鹿だ。ロボットアニメなんか作りたい奴は馬鹿なんだ。ロボットのことばっかり考えてるのは馬鹿なんだ、馬鹿だ馬鹿だ馬鹿なやつが馬鹿なことやるから、俺の折角の『ガンダム』がーー!」

 すごい! 放映から二十五年以上たって、いまだに思い出して怒れるぐらいこの人は『ガンダム』を、その可能性を信じているんです。

 「なぁんだ富野さん、『ガンダム』好きなんじゃーん」と思うんですけど、ここで「富野さん、『ガンダム』好きなんですね」って言ったら、富野さんは殻にとじこもっちゃいます。だから、「凄いですね、凄いですね」とひたすら感心するわけです。
 
 実際、ほんとに凄いんです。ホワイトベースの廊下をグリップみたいな物が常に移動して、艦内の移動は、それにつかまって行うというアイディアも、ほんとに凄い。

 僕は映像SFを、子供のころから山のように見てきました。おそらく自由圏で公開されたSF映画で見たことのないものは十本とないでしょう。

 その僕でも、無重力空間における宇宙戦艦内の移動手段を、あれほど合理的に、かつ端的にかいた描写は見たことがありません。

 あのグリップのアイディア一つだけでも、SFの映像史に残るべきものです。でも冨野さん、あの程度のアイディアは『ガンダム』の中にぼろぼろぼろぼろ出してるんですよ。

 『逆襲のシャア』の時も、富野さん自身が出した移動手段に関する画期的なアイディアがあります。空気銃みたいな物をポンと撃つと、その先にワイヤ付きの吸盤が付いていて、壁にくっつく。そこで銃についてるモーター式のウィンチでワイヤを巻き取り、吸盤のくっついた壁まで移動するというシステムです。これだと、グリップがない無重力空間でも、簡単に移動できます。

 僕は驚きました。たしかに解答はこれしかない。これまで誰も、NASAも世界中の科学者も思いつかなかったアイデアが、日本のアニメに平気で出てきちゃったんです。

 それまでのアニメでは、例えば『マクロス』にしても、無重力空間で人間がどこかへ行きたい場合、壁や床を蹴ってすうーっと行けちゃうように描かれています。

 でも、それでは無理なんです。もしどこかを蹴ってすーっと移動したら、途中で空気抵抗で止まっちゃうこともあります。そうなったら、その人間は空中で全く動けなくなります。誰かに助けてもらうしかなくなるんです。そういうかっこ悪い事態を、全く想定してないんですよ。

 富野さんはもともと宇宙ロケット工学者になりたかった人です。そんな変な過去を持っている人ですから、宇宙空間とか無重力空間において、人間とはどういう風な行動をするのか、さんざん考えてきた人なんです。

 あまり普通の人では考えないオタク的な事を、二十年以上、三十年以上考えてきて、その全てを『ガンダム』に盛り込んだわけです。だから、そういう凄いアイディアがばんばん出てくるわけです。

 さっき言った「先っぽに吸盤付きのワイヤーを発射する」というシーンも、見てる人には自然すぎて、「ああなるほどな」と納得して終わってしまうだけですが、富野さんがやるまでだれも思いつきもしなかった画期的なアイディアなんですよ。

 富野さんは、そういうアイディアを『ガンダム』の中でいとも簡単に繰り出すんです。

 だから、僕は昔から、富野さんは天才だと思ってたんです。でも、そういう点をSF業界でも誰一人評価した事が無かったので、「こういうところが富野さんの凄いところだと思います」って話したら、富野さんがどんどんごきげんになって、『ガンダム』話が加速していくんですよ。それをみて喜んだ新潮社の編集が、凄くうれしそうに「で、その『ガンダム』なんですが」と言い出すと「だから僕は『ガンダム』の話なんかしたくないんだよ!」って、また元の木阿弥なんですよ。

 それでも「ニュータイプ論」も、ちゃんと対談の中で出来ました。

 富野さんは『ガンダム』の中で、「生物としての人類の進化」をニュータイプという形で描きました。でも、富野さん以外のメインスタッフたち、たとえば安彦さんとかはみんな、ニュータイプという考え方にイマイチ懐疑的だったと、よく言われます。

 ニュータイプという概念が、なぜ『ガンダム』の中で必要だったのか。イマイチ懐疑的だという雰囲気の中で、富野由悠季という人間は何を書こうとしていて、それがどう、まわりから懐疑的にとらえられたんだろうか。見ていた当時の子供たちというのはどういうふうに受け取ったのだろうか。

 僕が気になるのは、その「ずれ」です。

 さっき言った「ビームサーベルは、本当はこうだ!」という富野さんの中にあるイメージ。それがどれほどかっこよくて、どれほどゆるぎないイメージであっても、正解じゃないんです。それは富野由悠季のアイディアにしかすぎない。

 世の中に流通しているイメージ、実際にみんなが共通して持っている概念では、ビームサーベルは光って太くて剣のように見える物です。

 だから、こっちが正解なんです。

 富野由悠季が最初に思いついたから正しくて、世の中のすべての解釈が間違っているわけではない。正解というのは、最終的にみんなが持つようになって形作られた共通概念です。そっちを正解とするしかないし、そういう風に誘導できなかった場合、それはクリエイターの負けなんです。

 今、僕が『遺言』と題して「自分が覚えているうちに頭の中を語っておこう」とやっているのと同じように、「見ている自分はこう思ったんだけど、あなたはどうだったんですか。今、どう思っていますか」という、もうちょっと一対一の人間みたいな会話してみたかったんです。

 冨野さんは、僕より年齢が上だし、尊敬もしてるから、そんなタメ口を聞けるような関係じゃないんですけど、尻も三回以上触らせてあげたし、腹も何度も触らせてあげたから。

 だって、いま富野さんに正面切って『ガンダム』の話を聞く人なんかいないわけです。

 聞くとしても、「その時の富野さんはどうだったんですか」、という歴史的な検証になっちゃうか、富野由悠季は何を語りたかったのだろうかという作家論になっちゃう。

 そうじゃない一対一の人間みたいな会話をちゃんとやって、残しておきたかったんですよ。どうせ一対一の対話するんだったら、今の日本で一番難易度が高いであろう富野由悠季でやってみたい。そう思ったのがあの対談のきっかけだったんです。

 いや、面白い体験でした。新潮社文庫から出した『オタク学入門』の後ろにこの対談が入っています。でも、あれ二時間以上ある対談だったから、そのまんまテープ起こしして載せたら、多分本一冊近くなっちゃうんですよね。だからかなりカットして、要所要所になってる。残念だったな。

 アニメ誌のインタビューは駄目なんですよ。富野さんを先生だと思っていても、人間とは思ってないから。
「人類なんか滅びればいいんだ」とか「今の若者はみんな自衛隊でやればいいんだ」とか「自衛隊は全部軍隊にして日本は戦争して人口三分の一にすればいいんだ」とか極論を言った時に、絶対に富野さんの一部は「こんなことを言ってしまう俺!」とか「こんなことをインタビューで言わせるお前!」とか「誰も俺の心の痛みに気づいていないのか!」と、絶対に悲鳴をあげてるんですね。あの人もマゾで甘えん坊だから。

 人前でキツいこと言うときは、絶対に「こんなことを言う僕をどうにかして!」みたいなオネェが後ろにいて、正面のマッチョをコントロールにしているに違いない。これが、僕の富野由悠季観です。

 どっちかが嘘じゃないんです。どっちも本心。マッチョも富野さんだし、オネェも富野さん。

 そういう意味では、ひょっとしたら第三の富野、第四の富野がその後ろの上とか下とかにいるかも分かんない。まぁその辺まで行くと僕も見えないし、家族でもないからそんな深い付き合いしてもしょうがない。

 とりあえず俺にみえる第一と第二にはちゃんと話をしようと思って、「ちょっと待てよ、オネェ前へ出ろよ」みたいな感じで、ゆさぶりをかけるわけです。

「なんで富野さんそんなに僕にケンカ売るんですか?」と言って、富野さんが「えっ?」って顔をしたところで、また話をするとか。

 こんな話法でがんがん話が出来るようになったので、本当に面白かったですね。

 昔、宮崎駿と話して「お前見たいな奴が自民党に入れるんだ!」って言われた時は、こんな風にはなれなかったです。宮崎さんを「偉い人」としか考えてなくて。

 偉い人だと思うから、内容のあることを聞こうとし過ぎた。偉い人だから、『ナウシカ』に付いての話とか『ラピュタ』についての話とか、自分の為になる話をしてもらおうとし過ぎちゃったんですね。

 イベントとか大学で話すとき、質問コーナーの時間とかも全部そうですけど、誰でも、出来るだけ相手から面白い話を引き出そうとしちゃうんです。

 僕も同じですけど、効率的に生きる事を考えるし、自分の問題で精一杯ですから。

 だけど、実は自分と相手の関係が面白くなる方が、絶対に楽しい対談になるんです。面白くするポイントは、富野さんから面白いことを引き出すことじゃないし、僕が面白いことを言うことでもない。この二人の関係が対談内でどのように入れ代わったりしながら、接近したり離れたりするか。

「ここは分かりあえるよね」「でもお前のここは大嫌い」と感情的になりながらも、それを一生懸命大人だから論理で補完しあっていく様というのが大事なんです。それがないと面白みがでない。

 昔の宮崎さんとはそういう関係が作れなくて残念でした。宮崎さんが年上で、実力もすごいのがわかっていたし、会うなりいきなり説教されたし、僕がちょっとびびっちゃったせいでしょうね。



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遺言」 第4章「新しいこと」と「作家の責任」
 富野由悠季のものすごいヘンさ P243~P250 より

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ライター:のぞき見のミホコ






otakingex at 22:00コメント│ この記事をクリップ!
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