ここから、ちょっと余談になります。
スコラ派の神の存在証明の話ってほんとにね二十年ぶりくらいに考えたな。めんどくさいよねこの話。
でもこれをやらないと「神は孤独だ」という話も出来ないし、アトランティス人が人間を作った動機を考えるには、ある程度この話を通んなきゃしょうがねぇなと思って書いたんですけど。自分から見てもなかなかしんどい話です。
アダムとイブは知恵の実をとって神に楽園から追放されたって言う。
知恵の実って何か、知恵の実を食べた瞬間に人間がしたことは何かっていうと隠すことなんですね。映画的に言うと股間を隠して、聖書的に言うと「何か食べたか?」っていうと「食べてません」って嘘をつくこと。
つまり知恵をつけると言うことはイコール嘘をつくということであって、神は嘘をついたことを怒って楽園を追放した。
アニメを作るとは「ウソのお話を作ること」でしょう。僕らは知恵の実を食べて嘘をついた。嘘の中に正義とか愛とか希望とかですねそういうフィクションの世界、熱血マンガや恋愛マンガの世界がある。
神様に追放されるような行為が、実は夢とか希望とか正義そのものなんです。
このモヤモヤした思考のジレンマをどないして結びつけていこうかというのがですね、『トップをねらえ!』まではあまり考えてなかったんですけど、『ナディア』の頃からの自分自身の作品の作り方のテーマですね。
実は、いまだにこのジレンマ、決着は付いてないんですよ。
『いつまでもデブと思うなよ』(二〇〇七、新潮新書)って本が僕にとってなんで楽だったのかというと、本質的なことを考えずに、メソッド=方法論だからなんですね。
デブが良いか悪いかは置いといて、デブだと損をしたり病気になりやすい。そうすると家族が悲しみますよ、だから痩せた方が得ですよ、痩せるのはあまり難しくありませんよ、って言っただけです。
『トップをねらえ!』の宇宙怪獣みたいなもんなんです。
宇宙怪獣が攻めて来ますよ、このままでは人類滅びますよ、戦うしかないでしょ。といったらですね、戦うの凄い楽なんですよね。それ以上、考えなくてすむから。
僕にとっての本を書くハードルが年々年々微妙に上がっているんですよ。上がっていきながらもまだ収拾のつく範囲なんですね。『オタクはすでに死んでいる』(二〇〇八、新潮新書)っていうのは、まだコントロール範囲内で「この手があったか」てクライマックスに向かってびゃっと走っていくんですけども。
問題は『ぼくたちの洗脳社会パート2』なんですよ。『洗脳社会』(『ぼくたちの─』。一九九八、朝日文庫)書いた次の年から準備に入っていて、まだ書けない。こういう問題の正反合の丁度一致点にあるんですね。
ゴールがもう見えてて、結論だけいえば書けちゃうんですけど、結論だけいうとやっぱりへんてこ話になる。
『ナディア』の初期話で言うところの「超科学同士の戦い」みたいになっちゃうんですね。
如何にそれに地続きのリアル、つまり「日本人の少年剣士」みたいなのを入れて、みんなが考えてる日常の世界からじわじわあげていって、ありゃひょっとしてそうかも、っていう所に持っていきたいなぁと。
『僕たちの洗脳社会パート2』のサブタイトルは『Meaning of Life 人生の意味』っていうのが出来ててですね、人生の意味とは何かを定義できちゃうぞ、って十年前に思ってから書こう書こうとしてるんですけど。なかなかそこに行くまでに肩が温まらないのかな。
読んだ人が「ああなるほど、人生の意味ってこれか!」っていう本であり、納得がいって役に立つ物を一冊書いて見たいなぁ。
それが書けると僕の著作活動というのはうまく終われる。
アニメを「はいアニメ作るのこれで終わり! これでいいや!」みたいに区切りがついて別の遊びがはじめられるのにね。
十年ぐらい前にKJ法、(川喜田二郎)というメソッドで情報カード作って、『洗脳社会2』のメインプロットとフレームを作って見たんですけど、手に負えなかったですね。
『遺言』ってイベント始めたのは僕がどんどん頭ボケてきて、前やったことを忘れてるからみんなに話すというのと同じようにですね、これはひょっとしたらいつかやるやると言いながら、忘れているのが幸せなんだろうか。そんな嫌な予感がちらっとしてますね。それでもいいのかもなぁ。
本当に意味のあることは、為になる話とか、みんなが面白がる話をすることじゃないかもしれない。今日の季節とか今日の風むきとか今日の天気みたいな物が感じれて、ちょっと生活に彩りがある程度っていうのが、ひょっとしたら物書きとか文化人とか文化そのものが持つ、賽の目の上限なのかもわかんないぁ。
などと逃げ腰な事も考えてる今日このごろでございます。
その(11)に続く
『遺言』 岡田斗司夫著 筑摩書房 より