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2012年04月25日

特集『ナディアの舞台裏』(『遺言』五章より)その(9)プロデューサーではもうこれ以上はできない

その(8)より続き                その(1)はこちら 


プロデューサーではもうこれ以上はできない


 でも、僕はこれでよかったのかな?

 
やっぱりそう考えてしまいます。
 ガーゴイルがなぜ人間をそこまで見下していて、それなのに人間を支配したがるのか。
 さっき言ったように神は人間を作ったんだけども、作った人間が喜んだり悲しんだり走ったり歩いたりする様を見ないと自分の感情すら起きない悲しい存在です。

 それと同じで、ガーゴイルも多分、自分自身が何かを好きになったり嫌いになったりすることができない存在なのだと思うのです。
 それでも一人ではあまりにも孤独だから、自分の支配下で誰かが戦争したり仲良くしたり話し合ったり平和にオリンピックしたりしていてほしい。そうでないと安心できない奴なんだろうなぁ。
 そういうアナロジーを提示したかったのと同時に、ジャンの決着もつけたかったんです。

 第一話からジャンが延々と言ってる楽天的な未来観、「でもナディア何とかなるよ」とか「でもナディア大丈夫だよ、科学が何とかしてくれるよ」「僕には科学があるから大丈夫」というこの無責任な感じ。
 これに決着を着けたかったんですね。

 とは言っても、日本に原爆が落ちたからジャンが言ってる科学は、所詮信じられないんじゃないか。そんなつまんない価値観の相対化では納めたくなかったんですよ。

 NHKでアニメを作って「みんな」に見せる。アニメファンだけじゃなくて、子供たちにも、普通の人にも見せるからには、「この世界は大丈夫だ」という保障を与える必要がある。
 見ている人全員に、「この世界はいろいろ喧嘩もあるけど、最終的にこのアニメみたいにハッピーエンドになるんだよ」もしくは「頑張ったらいいことがあるんだよ」、そういうメッセージを伝えなきゃいけない。

「ひとに意地悪する人は、ガーゴイルみたいな嫌な末路が待ち受けているんだよ」とか。そういう事を教えることが必要なんです。それが子供番組を作るプロの責任です。

 でも、それって、ジャンの「無責任な言葉」と全く同じなんですよ。「ナディア、なんとかなるよ。大丈夫だよ」って言う。

 我々は科学の力を使ってアニメを作り、科学の力を使って毎週金曜日に電波を飛ばし、全国の家庭にあるテレビという小さな機械の箱からみんなに嘘を言うわけです。
 この世の中には意味があるとか、この世界には果てがないとか、平和な世界がやってくるとか、未来に希望があるとか、そういう自分にも確信が持てない、いわゆる「嘘」を言う。

 その「嘘」は作っている人間自身も時々疑いたくなって、破壊衝動みたいな物が起こって、ガーゴイルみたいな奴にセリフで言わせたくなっちゃう。だから、この世の中が終わってしまうような作品を作るときもある。

 でも基本的に僕らがやるべきことは「この世界は大丈夫なんだよ」と見てる人にいつも安全サインを出すことです。 自分一人が絶望するのはいいんだけど、その絶望を無制限にばらまく権利は誰にも無い。少なくともそれはプロの作品じゃない、大人の仕事じゃないと僕は思うんですよ。

 ジャンがナディアに対していつもしている「でも大丈夫だよ」という無責任な安心のさせ方は、僕らがアニメを作ってオンエアしてることと全く一致すると思う。それをラストでやりたかったんです。

 じゃあ原爆が落ちたら、どうするのか。

 ジャンが信じた科学は、平和を破壊するかもしれないし、悪魔性をもっているかもしれない。だけど、隣にいる世界で一番好きな人を微笑ませる力くらいは持ってる。

 だからロケットに乗って宇宙に行けるんだよ、ってなことでラストシーンを折り畳む。

 そうでないと『ナディア』の本編内で起こっている、超科学と科学の対決、科学と科学の対決、もしくは人間性と科学の対決、ナディアが持ってる自然主義と科学技術の対立。これらが、最終的にアウフヘーベン(正反合)しないと思ったんですね。

 ナディアが持ってる疑問と、ジャンが持ってる欺瞞。

 「でもナディア大丈夫だよ」とか「ナディア、人間は信じれるよ」という事に関して、自分たち自身が個人として決着するという形を見せたかった。子供たちには微かに分かって、大人たちにはズシンとわかる形で終えたいと思ったんです。

 最終回のシナリオ近くなって僕がそれの説明をした時に、庵野君がすっごく考えて「やれるだけやってみますか」って言ってくれました。
 実は、全然やってないということもないんですよ、多分。日本海溝にノーチラス号を沈めるとか、みんなそれぞれ成功してるというイメージとか。そのあたりで庵野君としては僕らの考えたことにちょっと気を使ってくれたんです。

 庵野君としては、岡田さんたちが言ってることは分かるし、その方がストーリーとしてまとまる。でもそれよりは、アニメを見てくれて、現にわくわくしている人達の気持ちに応えるためには、キャラクターのそれぞれの行く末の方が必要なんじゃないか。そう判断したわけです。

 これ、僕が「これはもう、誰かと作品は一緒に出来ないな」と思った瞬間でした。

 庵野君がやってることは一〇〇パーセント正しいと思いながらも、俺はそっちの世界へは行けない。だってそれは、悪い言い方だと「ノリだけで話を作っちゃう」という事になるからです。

 さっきの「奇跡は起きる」というシーンでも、「そんなにしょっちゅう起きねぇから奇跡って言うんじゃねぇか」とか「そんな安っぽく毎回毎回奇跡、起こすんじゃねェよ」と、つい思っちゃう。
 もっと苦しんでも構わないから、作品内の整合性とか、ドラマの中で自分達がやりたいことと、キャラクターがそれぞれ伸びてゆく先をなんとか合成ベクトルを見付けていって作りたいと思ってしまう。

 でも庵野君は、キャラクターの魅力を出来るだけどんどん伸ばしていって、キャラ化を極限まで進める。そうすると出てきた瞬間に一発でみんなの心をつかめるキャラクターが生まれるんです。
 出てきた瞬間に黄色いスカートをぱぁっと翻して「あんたバカァ?」ってパンツまる見え。みんなのハートがっちりですよ。

「俺はそこまで行けねぇ」と思いながらも、『エヴァ』を見ると「庵野すげぇ」って思っちゃいますね。

 その時、今まで一緒にやれたんだから、それだけでも御の字だなぁと思いました。
『ナディア』以降も、僕の中ではやっぱり『王立』と『トップ』が頂点なんですよ。これがやれたからいいやって。
 これ以上アニメを作り続けても、キャラクターの決着を着けなきゃいけない限り、僕にとっての嘘がどんどん増えてくるし、僕側に話を近づけるとどんどん話が作りにくくタイトになってきて、余分な遊びが入れられなくなる。

 そういう作品は作れるかも知れないけど、そこまで作りたいんだったら、僕はプロデューサーという椅子から降りて、監督という位置で作るべきなんですよね。

 でもそこまでする根性は僕にはない。というより、自分の才能で出来る物で自分を満足させられない。
 プロデューサーというのは究極のグルメです。世界一のシェフに、世界一の食材を与えて、世界一の料理を作ることを味わってしまった。
 既に快感を覚えちゃった人間ですから、今さら「さぁ、ニンジン切ってカレー作ろう」と思っても、夜食にはなってもディナーにはならないんですよ。

 これがプロデューサーのジレンマですね。

 だから「ああそうか。じゃあ楽しかったけど、アニメ作るのもこれで終わりだなぁ」と思いました。
 それは別に庵野君との組み合わせや、山賀君との組み合わせがこれで終わったと言うんじゃなくて、人に何かを頼んで一緒に作っていって、ある程度自分の思った物と、彼らが思ったものの間の合成ベクトルを作るというのは、おそらくこのあたりが限界だろう。

『王立』、『トップをねらえ!』、あと『ナディア』も半分関われた当たりで、納得しなきゃなぁってふうに思いました。
 自分たちの生き方・物の考え方と、アニメをなんで作るのか、虚構をなんで私たちは語り、それで心が動くのかという話は、この先もずっと繋がる本書のメインテーマの一つです。
 
 そこに宮崎勤事件も重なって、ガイナックスの「テーマのあるパソコンゲームを作ろう」という、山賀君が考えた壮大かつ失敗に終わったゲームプロジェクトが生まれたんですが、それは次章でまとめて語りたいと思います。
(補足:次章とは「遺言」の第6章になります。ナディアの舞台裏は第5章までです。第6章も大変面白いので、興味を持たれた方は、ぜひ「遺言」原本を読んでみて下さいね!)


その(10)に続く

『遺言』 岡田斗司夫著 筑摩書房  より 
  




otakingex at 17:00コメント│ この記事をクリップ!
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