FREEexなう。

2012年04月23日

特集『ナディアの舞台裏』(『遺言』五章より)その(8)使われなかったエンディング 神様は人間から勇気をもらっているのかもしれない

その(7)より続き                その(1)はこちら   

 使われなかったエンディング


 最終回をどういう風にまとめるのか。

 チェスのコマ、つまり「使えるキャラクター」がどんどん少なくなっていく状況です。しかも僕が突っ込んだような本編の矛盾要素は、その他にもいっぱいある。

 結局ネオアトランティスは何をしたかったのか。

 彼らのプロジェクトである人類を支配するってのは具体的にどういう風な事なのか。
 実はこれ、全部種明かしができていません。棚上げになったまま、お話自体は終わってしまうんです。
 これに対して回答を出そうと思えば多分出せるんですけども、庵野監督が選んだ最終回は違うんですね。回答を提示するのではなく、キャラクターの行く末を見せることだったんです。

 どうやって、全てのキャラの笑顔をこのお話の最後に作っていくのか。そこに力を注ぎこんだわけです。
 一年間このアニメを見てきてくれて、みんな絶対にハンソンやサンソン、グランディスを始めとして、ナディアもジャンもエレクトラもマリーも好きになってるはずだと。じゃあ、好きになってる心の決着点を作る必要がある。そこに庵野監督は集中しました。

 でもガイナックスの負け組、当時の僕や貞本君、前田君たちが考えたのは、さっきも話したバランス、「心の温度管理」をしながら、冷まさないままでも、どういう風にすれば、このお話全体が決着するのか。キャラクターではなくて、お話とか指し示すもの自体が、どういう風に決着するのかってずっと考えていたんです。

 なので、最終回のシナリオが上がるまでずっと候補にあったのが、もう一つのエンディングでした。
 もう一つのエンディング、ラストは一九四五年です。

 僕らが考えていた設定では、まず最終話前半で、大人になったジャンとナディアが描かれます。
 ジャンは科学者になり、ナディアはニューヨークタイムスの記者になります。発明好きのジャンが科学者は当然として、ナディアは彼女の持っている正義感や環境に対する危機感がジャーナリストの仕事に生かされて成功するわけです。やっとナディアが「アトランティスの末裔」以外で自分が役立つことを証明できた、そんな彼女の人生を描きたかったんです。

 一九〇五年、ジャンは世界で初めて飛行機による大西洋横断に成功します。パリからニューヨークまで飛行機で飛んできたジャンをニューヨークで迎えるのが、ニューヨークタイムスのナディア記者。二人の恋の成熟も予感させるクライマックスです。

 で、ラストのラストは一九四五年。月日は四十年も流れて、第二次大戦が終結する瞬間です。
 なぜ一九四五年なのか。

 実際の最終回であったナディアのお兄さんを生き返らせた残酷なやり方を、ガーゴイルは「これが科学の力だ」と言うシーンがありました。それを聞いたジャンは「科学の力……」とつぶきます。
 これは一話からずーっと、ジャンというキャラクターが信じてきた科学というものの根拠を疑った瞬間です。
 それまでもちろん、ノーチラス号の中で人が死んだりはするんですけども、紆余曲折はありながらも科学というものに対してジャンは、否定的な考えを持ったことがない。
 科学は、色々悪い人がいれば悪いように使われるかもしれないけど、人間を幸せにするための道具であり文明の象徴であって、人が喧嘩したり奪い合いをするのも、たとえば科学の力で食料が一杯出来ればそういう風なことがなくなる、天国への階段だという風に思ってる。

 ジャンは、科学が発展する方向に必ず人々の幸せが存在すると信じています。科学を信仰しているんです。

 一九〇五年、ジャンは単独大西洋横断をして、ナディアがそれを迎えてくれる。このシーンはジャンの人生の頂点です。
 ジャンにとって科学は輝いて見えます。

 しかし一九四五年のパリ、ナチスドイツに蹂躙されたパリの街並がどこまでも広がります。その片隅で、老夫婦になったジャンとナディアが終戦のニュースをラジオで聞いています。
「ヒロシマとナガサキで新型爆弾が使用され、日本は降伏した。正義の科学の力でようやっと戦争は終結した」という放送です。
 ジャンは科学者ですから、その爆弾とは何を意味するのか、想像がつきます。ついに人類は核兵器を使ってしまった。人間がまたガーゴイルに一歩近づいたと解るわけですね。

 開けてはならないパンドラの箱。自分たちが命を賭けて守ったはずの箱。ナディアのお父さんが命を賭けて人類から隠して、滅ぼした筈の箱。
 ガーゴイルが持っている悪の科学の力を、人類自身の手によって開けられた瞬間だと、ジャンは知ってしまうんです。

 日本に新型爆弾が落ちて、もちろんパリの街は万歳万歳です。連合国が勝ったんだから。実際の歴史でも、世界中が「これで戦争が終わった」とお祭り騒ぎでした。
 当時のアメリカでは、アトミック・カクテルという飲み物が流行りました。「俺たちの原子爆弾のおかげで別れた恋人が再開した」というレコードが吹き込まれて発売され、正義の力「核兵器」みたいなキャンペーンがはられました。
 それは、政府が「核兵器が良い物だ」というキャンペーンをしようとしたのではありません。
「あの呪わしいファシスト達が起こした戦争を核兵器がようやくおさめてくれた」と言う勝利の凱歌、民主主義の凱歌だったんです。

 でもジャンとナディアはそうではないことを、少年少女時代に知っています。

 科学の力をジャンはなんとか信じようとしていたけど、二度の世界大戦と原子爆弾の投下によって決定的に心が折れてしまうんです。

 ラストシーン。
 年老いたナディアがラジオのスイッチを消します。同じく年老いたジャンに「ジャン、あれは出来たの?」と聞く。「出来たよ」って屋根裏に行くと、すごく古びたロケットがあるんです。ジャンがそのシーツをぱっとはがすと、老夫婦のジャンとナディアは若い頃の姿に戻って、ピカピカのロケットに乗って宇宙へ飛んでいく。

 そういう最終回を僕らは考えてたんです。

 実はこれ、後に『おたくのビデオ』でやったもののプロトタイプなんですけど。
 ジャンとナディアは、なぜこんなことをしたのか。このラストでやろうとしていたことは何か。
 うーん、めんどくさい話なんですけどね。説明してみます。


神様は人間から勇気をもらっているのかもしれない

 ブルーウォーターの正体が人類というか歴史そのものの結晶だって話しましたよね。僕が考えた最終回では、ブルーウォーターが最後には破壊されるんです。

 ブルーウォーターは解放されて、その瞬間十九世紀の地球上のあらゆる都市の上空に、それまでの地球の、人類の歴史が全部ばーっと流れるんですね。ブルーウォーターが解放されるってそういう事だから。
 地球の誕生から、生命の誕生から恐竜がどんどん増えていって恐竜が滅びていって、ついには人類が生まれ、火と言葉を持ち、道具と都市を発明する。
 僕らはこれを「人類映画」と呼んでいました。その人類映画が上映されるわけです。それこそがアトランティス星人が欲しかったもの。人類を作った超越的存在、いわば神様がほしがっていたものだったんです。

 これが、僕らの考えた回答でした。
 なぜ神様はそんなものを欲しがっていたのか。

 これからの話も全部つながるんですけど、ますます話がややこしくなります。
 スコラ学派という中世のキリスト教学派がいました。神学を研究する学派なんです。大変めんどくさいことばっかり考えていた。たとえば、針の上で天使が何人踊れるかとかですね、そういう事を毎日毎日、本気で論争してたんですね。

 そのスコラ学派が考えた神の存在証明って言うのがあるんです。

「神様は存在する」というのを、合理的に証明しようとしたわけです。
 僕らにしてみれば、「神様が存在するのかしないのか、そんなのわかんないよ」とか、「科学的には存在しないよ」とか、「神様が存在するのは、人の心の中じゃないの」とか、二十世紀・二十一世紀の人間はそう割り切って考えています。

 ところが中世ヨーロッパの人間にはそこまで割り切って考えられるわけじゃない。神が存在するのかどうか、もしくは神が存在しなければいけないのかどうかってのは、彼らにとってはものすごく重要な問題であり、緊急の問題であり、常に考えるべき問題なんですね。

 で、スコラ学派は神の存在を証明しちゃったんですよ。すごい! 

①神は万能である。
 これは大丈夫ですね。聖書に書いてあるから。神は万能である。

②神はすべての属性を持つ。
 万能と言うことは、「全ての属性を持っている」という意味に他ならない。神は「美しい」という属性も、「力強い」という属性も、とにかくありとあらゆる属性を持っている。神は力持ちである。神は何にでも変身できる。火の姿を取ることだって出来る。神は愛である。これがすべての属性を持つということです。

③「存在する」というのも、属性の一つである。
 スコラ学派はここに着目したわけですね。
 神は真・善・美である。神は真という属性を持つ、善、グッドという属性も持つ。美、ビューティという属性も持つと考えた。
 では、神は「存在する」という属性も当然持っているであろう。なんせ万能イコール「全ての属性を持っている」わけだから。

 というわけで、神の存在は証明された。以上、証明終わり。

 これはもう、屁理屈ですよ。凄いペテンを考えたもんですよね。
 この屁理屈、カントが否定するまで七百年もかかりました。アンセルムスの『プロスロギオン』が出たのが一〇七八年。カントが『純粋理性批判』で神の存在証明は出来ないとするのは一七八一年です。実に七百年近く有効だったことになります。

 さて、神の存在証明から僕は考えました。

 別に神様は存在してもいいんですけど、こういう理屈で存在証明されちゃうと一つ問題があって、神様は絶対に一人しかいないことになる。
 万能であるものが複数いれば、意思が二つあることになる。それでは万能ではなくなっちゃうんです。万能である神であっても、複数であるという属性は持てない。つまり、神は万能であると定義した瞬間に、複数の神は、言葉の定義上あり得なくなってしまうんです。

 だから、神というものを人格神として考えるならば、神は絶対に単数形でしか存在しない。 でも、単数で万能の神様がいたとしたら、そいつはとてつもなく孤独だろうなって僕は考えたんです。

 神がいたらどんな奴だろうかと考えるとき、普通は下から目線なんですけど、僕はその時、水平目線で考えてみたんですよ。
 神であって、万能であって、孤独である存在は何をするだろう。多分、孤独と感じることも出来ないんですよ。だって、この世界が生まれた時から一人で、この世の中のありとあらゆる事が思い通りになるから、孤独とか一人ぼっちという感情すら思いつかない。まぁ、退屈という感覚くらいはあるかも知れないけど。

 そう考えたら、昔読んだ『よろこびの機械』(レイブラッド・ベリ、ハヤカワ文庫)という黒人賛美歌についての短編小説を思い出したんです。

「人間というのは何の為にこの世の中に遣わされて生きているのか」「喜んだり、悲しんだりするその感情自体を神様に届けるためだ」というお話なんです。この発想が「うわぁ、すごく面白いなぁ」と心に残っていました。
 じゃあもし、神という存在がもしも人類を作ったんだとしたら、その理由はきっとこれに違いない。アトランティス星にいる神は、「よろこびの機械」として人類を作ったのだろう。

 ナディアたちの祖先、地球に移住したアトランティス人も彼らの作った人造生命で、移住先で作った人類もやはり人造生命。

 アトランティス星にいる、万能であるために退屈である「神」は、そんな有限な命を作り、それを観察することによって喜びも悲しみもない神の心にもちょっとした喜びとか冒険とか愛とか、そういう感情のかけらみたいな物が浮かんでくる。そうやって神は退屈しのぎしてるんじゃないかなと思ったんですね。

 それはそのままアニメを見ている僕らにもあてはまることです。
 本書の最初から繰り返してるテーマですけど、なぜ僕らは現実の世界より、虚構の世界、嘘の世界からの方が、愛とか真実とか勇気とかを貰えるんだろう。

 なぜ親の説教は素直に聞けないのに、宮崎駿の言葉はこんなに心に届くんだろう。
 なぜ学校の先生の言ってることより『SLAM DUNK』(井上雄彦、一九九〇)や『エヴァンゲリオン』の台詞がこんなに心に響いてくるんだろう。

 親や教師の言葉は、自分を心配して言ってくれるリアルな言葉のはずです。社会評論家達が「アニメや漫画じゃなくて、リアルな人間のいうことを聞け!」と言うからには、リアルな人間であるあの人たちの言葉を聞くべきでしょう。

 でもやっぱ僕たちはマンガやアニメのキャラクターに、彼ら以上の影響を受ける。『カイジ』(『賭博堕天録─』。福本伸行、一九九六)の台詞とか、『機動戦士ガンダム』のシャア少佐とかに心震えてしまうわけです。

 それは僕らという存在自体が、ある種半分人間だけど、ある種半分神様みたいな物だからだろうと考えるわけです。

 マンガや小説という「紙上のインクの染み」や、テレビという箱とか、映画館の幕に映ってる影を見て、自分達が生きるエネルギーとか感動を貰う。
 映画やドラマなら俳優さんたちが演技をし、アニメなら絵が動く。虚構の世界の中で嘘の人間たちが生きていると称している不完全な物を観察しているだけで、エネルギーをもらえるわけです。

 それがどんなにウソの世界でも、人が勝手に考えたストーリーでも、僕らが感じる感動は本物なんです。それを僕らは次の日を生きるエネルギーにするわけです。
 小説や漫画からなにか勇気を貰ったり、優しさを教えてもらったりした結果、翌日、実際にまわりの人に優しく出来たり、誰かにちゃんと言葉をかけられたりできる。

 根元はすべて嘘かもしれない。でも自分の感動、心の震えは本当なんですよね。

 NHKのテレビアニメという、最高の桧舞台を与えられた僕らは、この関係そのものを観客と共有出来ないかな、と考えたわけです。
 君たちは今、テレビという箱の中に映る『ナディア』という影をみて感動している。アトランティスの神様が人間を作ったのも全く同じ動機なんだ。神様も孤独で生きているのがちょっと辛いから、自分に似せて人間を作り、その行動を見ている。

 アトランティス人をこう設定してみたらどうだろうか。僕ら人間は、自分の行動を単純化してシンプルなストーリーにして、アニメにしたり漫画にしたりして、それを見ることで心を震わせている。これと構造的に同じだね、って。

 こう考えると神が身近な気がしてきて、面白い。キリスト教とか神とか、僕はどちらかと言うと信じない方です。それでも、自分と全く関係ないと思っていた神様という存在が、自分が日常やっている「アニメを見る」という行為とすごく近い、ほんの隣同士みたいなことかもしれないと思うと、すごく面白い。

 この構造を、テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼという段階を踏んでガーッと組み上げていけたら、凄い話になるよなぁと思ったんです。
 アトランティス人が与えたブルーウォーターとは何かというと、生命の記録をすべて撮って、それを見て楽しもうという、ハードディスク録画なんです。

 神様は気が向いた時に人類の記録をちょっとずつ見て、退屈をまぎらわす。

 それは僕らが寝る前に撮っておいたビデオ見るようなものです。そうやって、退屈や寂しさをまぎらわしたり、次の日に生きるエネルギーを貰う。現実がちょっと辛いから、一時的な逃げ先とか、休憩所が欲しくて、アニメを見るのとまったく共通してるんじゃないかな。

「我々は神から教えを乞う」とか、「我々は神を見て学ぶ」みたいな考え方はよくあるんですけど、僕らは現にアニメから勇気を貰ったり、漫画から人生を学んだりするわけです。
 ということは、神様は人間を見て何かを学んだりするのだろう、というこの視点の超相対化。
 神様というのは超越的なものではなくて、僕らを見て勉強してり喜んだり悲しんだりしている、あんがい寂しがりの駄目な奴かもよ、という壮大な価値観の転換をやりたかった。

 こういうお話を『ナディア』というNHKのテレビアニメの場を借りて、壮大な合致というのができないかな、と思ったんです。
 こんなとんでもないことを思い付いちゃったんだから、窓際族の僕としては面白くてしょうがない。さっそく貞本君と前田君に話すと、もちろん二人はそれはもうノリノリですよ。「やりましょう!」、ということになりました。

 最終回で、ついにブルーウォーターが開放されて、「人類映画」が世界中の空で上映される。同時にアトランティス星に向けて強烈なレーザー通信光が発振される。人類はその時、宇宙には他の知性が存在し、彼らに向けて「もしもし」と挨拶がおこなわれたことを知ります。

 しかし数年待っても彼らは現れない。当たり前です。何百、何千光年離れた星にいるのかもわからないから。一万二千年を待った彼らにとって、数百年などほんの番組合間のコマーシャル程度の時間かも知れない。
 やがて人類は超越的な存在を恐れることを忘れ、自らの時を刻みます。第一次、第二次大戦はやはり起きて、パリの街は戦火に焼き払われる。

 ラストシーン、老夫婦ジャンとナディアのアパートで、核兵器のニュースをラジオが伝える。
 ジャンが信じた科学が、核兵器を作りました。ナディアが信じたジャーナリズムが、核兵器の正当性を訴えます。

 二人は屋根裏のロケットに乗る。古びて錆まみれのロケットは白銀に輝き、二人の老夫婦は若返って笑顔にあふれる。

 十九世紀末の第一回万国博のパリ、第一話のパリの街から二人のロケットは飛び立ち、宇宙へと向かう。カメラのフレームはどんどん引いて、二人を乗せたロケットも地球もどんどん小さくなる。そのままフレームを引く。ずっと引いて、アトランティス星の神の視点になる。

 さらにカメラの視点は後ろに下がり、神も小さく消えて、テレビを見ている日本の家庭の風景まで引いていく。さらに引いて日本列島の全景が見えて、ここでアニメは終わる。

 もちろん、このシーンだけじゃ意図は伝わらない。最終回の数話前から説明や伏線を入れて、徐々に種明かしは必要でしょう。とりあえずどこまで出来るのかわからないけど、これで空前絶後の最終回を組み立てようと思っていました。

 で、庵野君に話したら「ピンと来ないですね。使えません」と言われちゃった。
 庵野君がやりたかったのは違うことだったんですね。キャラクター的なクライマックスを作りたかった。

 映像で確認しましょう。 

 これ凄いんですよ。僕はいまだにこのラストシーン見たら、心が震えちゃうんです。

 さっき話したような最終回の作り方もあるんですけど、それはお話を作るやり方なんです。
 庵野監督がやったのは、キャラクターをどこまで立てれるか、キャラクターをどこまで監督が信じて愛せるか。そこにかけた方法なんです。めっちゃめちゃ気持ちいい。

 僕が考えたような最終回をやったら、それはそれなりに面白くなったと思うし、ひょっとしたら感動を生み出せたかも知れない。でも、こういうさわやかな感動は味わえない。
 キャラクターの力とか魅力を信じて、ラストシーンを毎回流れているエンディングにつなげていって、すかっとした爽快感を与えるという、その力はない。

 だから庵野監督という一人の監督に任せたからには、このエンディングで良かったんだなぁと思ったんですね。初号試写で見た時に「終わったぁ」と思って、僕は思わず拍手しました。スタッフみんなも拍手してました。

 本当にこの話は終われるのかと、最終回直前までみんな不安だったのが、「終われたよ!しかもマリーが一人で喋って終わらせてくれたよ!」みたいな。

 アニメーションを見ていても、 作り手側がキャラクターを信じてないとか、心配してないとか、将来を案じてないみたいな作品によく出会います。それに比べ『ナディア』は、庵野監督がキャラクターの存在を本当に確信していて、最後にそれぞれにふさわしいラストを作ってあげた、という形です。

 ナディアは庵野君の作品です。だからやっぱりこのラストで良かった。本当にそう思いました。


その(9)に続く

『遺言』 岡田斗司夫著 筑摩書房  より 
 




otaking_ex_staff at 17:00コメント│ この記事をクリップ!
特集 

コメント一覧(新規コメント投稿は、上のFacebookソーシャルプラグインをお使いください)