その(6)より続き その(1)はこちら
「矛盾点をなくす」よりも「心の温度の管理」
ところが、これを全部ひっくり返しちゃうのが庵野秀明の天才性なんですね。
ラストに向かって全部、キャラクターたちの舞台にしちゃった。このキャラクターショウが面白れぇんだよなー。
「庵野すげえよなあ」って思いますよ。「よくこの不利な状況からこの最終回作ったな」って。どんどん持ち駒がチェスのコマみたいに少なくなって、打つ手がなくなってくるのに、それでもこれだけの手が打てるのかって。
映像で確認しましょう。
ガーゴイル「だがしかし君にナディアが撃てるか」 (①)
ネモ撃たれる。(②)
ガーゴイル「どうだねネモ君、よく出来ているだろう」(③)
ネオ「父上」(④)
ガーゴイル「ネオの心は完全に消去したはずだ」(⑤ )
このシーンから先、奇跡の目白押しです。それまで「もうナディアの心は戻らないよ、永遠にね」とか、「こんな事は永遠に起こらない」とか言っていたことが、全てどんどん起きるんです。
奇跡のインフレ現象。
ストーリー的には、明らかにルール違反です。ところが、これを見ている最中は案外気にならないんです。
さっき言った、チェスのコマが少なくなってもドラマの緊張感が保持できるのはなぜか。あれだけの登場人物しかいなくて、しかもほとんどみんな黙っていて、ガーゴイルの台詞を聞いているだけなのに場が持ってしまう。
それこそが庵野秀明の力。キャラクターと台詞の強さなんですよ。この凄さをもう少し味わってみましょう。
ネオ「父上」
ネモ「ナディアを……頼む」
①ネオ「ナディア、目を覚ませ、ナディア」
②ネモ「ダメだ、制御装置を壊さぬ限りナディアは蘇らん 」
ここでまた「ナディアの心は永遠に戻らない」って言ってたのに「制御装置を壊さない限り戻らない」というですね、さりげなく条件付けが入ってですね、一段ハードルが低くなってます。
③ガーゴイル「おのれ!」
ガーゴイル、ネオを撃つが弾がはね返される。
④~⑤ネオ「愚か者め。私の体を鉄に変えたのは誰だったかね」
このあたりでもう勝敗決してるわけですね。おのれーとかって銃を持って撃ち出した瞬間に彼はもう敗北を悟るべきなんですね。
アニメやマンガの歴史上、「おのれ!」と叫んで勝った人は一人もいませんから。
⑥ネオ、ナディアの元へ行こうとする 。
この「へその緒みたいなものを引きずりながら、機械化された兄が歩いていく」という、すごくグロテスクで残酷でちょっと美しいシーンは、何をやっているのか。実は「ナディアの心は永遠に戻らない」という説明が、「制御装置を壊さない限り戻らない」になって、次に彼がそこまで歩いていけるかどうかだけの問題になっているんです。
実はさりげなくどんどんハードルが下がってるんだけど、気がつかないわけですよ、これ。ほんとに見てると気がつかない。
これが演出力であり、キャラクターの力なんですよ。
「ナディアの心は戻らないよ、永遠にね」って言ったのが、「制御装置を壊さない限り」になっている。
さらにその「制御装置を壊さない限り」ってのが「制御装置に手が届くかどうか」に問題がすり替わっている。
⑦~⑧手が届きそうになったら、今度はガーゴイルはいきなりコンセントを引っこ抜く。
⑨ガーゴイル「君は機械人形だよ。電源を切ればこのざまだ」
ガーゴイル「奇跡はここで終わりだよ。もはや君は指先ひとつ動かせまい 」
ガイナックス作品で、奇跡と言うと、次に何かが起こるってサインなんです。先日も樋口監督の『日本沈没』★見てたらやってましたね。
「奇跡でも起こらない限り無理だ!」
あ~、それを言ったら五分後に奇跡起こっちゃうよって俺思いながら見てたら、やっぱり五分後に奇跡が起こりました。
ガーゴイル「さあ、そのまま死に給え」
(中略)
⑩ネオ「私も人と共に生きたかった」
⑪ナディア「おにいさーん! 」
ここの爆発(⑫)、作画のセンスが良いんですね。
兄が爆発するときに、目を開いたまま爆発する。爆発するときに、目を一瞬開くことによって、起きてることの残酷さとか、本当に人間が死んでるんだということを悟らせる。
あそこで目を閉じたままだと、単にこのキャラがいなくなった、フェイドアウトしただけなんです。一瞬開いてる目を入れることによって、このキャラクターは確実に死んだんだとか、もう取り返しが付かないことが起こったんだっていうことが、解る。
この辺はほんとにアニメーターのセンスですね。コンテで描ききれないこともすごく多いので、こういうスタッフを見つけたら、手放さないようにしないとね。
ガーゴイル「愚か者の末路が」
ナディア「イヤー! 」
すごいでしょ。喋ってるのはずっとガーゴイルだけで、ほとんどのキャラクターは見てるだけなんですよ。
普通は不安になってもっと他のキャラにもセリフを割り振って喋らせちゃう。
でも喋らせるともっと収拾がつかなくなるだけですね、喋らせたら喋らせるだけ「お前は黙れ」とか「それでいいのだ」とか「フフフ愚かな人間が何を言う」って、言わなくてもいい台詞を作るだけになるんです。
ここで大切なのは、「他のキャラクターは息をのんでこの状況を見守るしかない」という情況をいかに作るかです。それで押し切っちゃうのが大正解なんですよ。
これは大正解の典型例ですね。これ、なかなか出来ないですよ。皆さんも自分でやってみたらわかると思います。
「ちくしょうガーゴイル、許せねえぜ!」とか「まさに奇跡だ。お兄ちゃんが動いた!」とか言わせたくなるんですよ。いわゆる『魁!! 男塾』で言うところの富樫的な事を言わせないのがすごい。そこに作品の品格が漂ってる気がします。
とまぁ誉めてきたので、今度は逆に反省点を並べます。「キャラの力で突っ切る」と言っても、ちょっと無理っぽかったな、というシーンも多数あるからです。
同じく最終回から見てみましょう。
ガーゴイル「さてナディア姫、茶番はここまでだ」
(中略)
①ガーゴイル「必要がなくなったからね。処分しただけだ」
強がりなんですよね、これ。だって必要ないなら十二年間も生かして来た理由がない。こんなに強がったセリフ言わずに、この時もうちょっと下手に出ればナディアも素直に従ったかもわかんない。でも、またここでこんな事を言っちゃうところが彼の心の弱さなんです。
ところがですよ、これもう最終回なんです。そんな時にガーゴイルのキャラの二面性とか見せても遅いんですよね。もっと早くやるべきでした。
②ガーゴイル「ブルーウォーターを元に戻し、この船を正しき道へと戻したまえ」
③ナディア「嫌です 」
ガーゴイル「ほう、この船がどうなってもいいのかね」
④ナディア「私はブルーウォーターの継承者として、この船を沈めます」
⑤ジャン「そうだよ、ナディア。僕らの事は心配ないよ。必ずニューノーチラス号が助けてくれる。そしたら、一緒に地球へ帰ろう」
ジャンの台詞、とてつもなく頼りないです。
「僕らのことは心配ないよ」って、なぜかと言うと、「きっと助けに来てくれる」という、他力本願ですから。
またそれに関して「まあ良いこと言うわ、彼」みたいな視線でナディアが見ちゃいます(⑥)。恋する娘のちょっとお馬鹿なところです。
さて、お話は進んで、ガーゴイルによって高い舞台から転落させられたジャンが瀕死になります。
⑦ナディア「お願い返事をして! ジャン!」
ネモ「ナディア。これを使いなさい。二つのブルーウォーターに願いなさい」
⑧ ナディア、ブルーウォーターに願うと、ガーゴイル塩になる。
⑨ガーゴイル「では私のやっていた事は全て……」
ネモ「幻だったのだよ 」
「早く言えよ!」ですよね。
これを十二年前に言ってたら、この事件はまったく最初から起こらなかったのに。さっきまでこれキャラクターの力で乗り越えると言いながら、さすがにこのシーンだけはいつも見る度に「ちょっと庵野君、それはないよ」って、一人言ってしまうんです。よく考えるとツッコミ所が多いんですよ。
たとえば、ネモ船長が最後まで残って血路を開いて、発射口からみんなを逃がしてくれます(写真)。でも実は、残るのは別にネモ船長じゃなくてもいいわけですよね。
特殊な能力が必要な作業じゃないんです。誰でもいいから一人、悲しそうな顔をしてネオ(ニュー)・ノーチラス号に残っていて、血路を開いてくれりゃいいんです。でもこれも、見てる人がそういうツッコミに気付かないうちにやっちゃう。
たとえば、黒澤明的なシナリオライティング技法では、脚本家が複数いて共同チェックするので、こういう矛盾はあんまりないんです。「ネモ艦長じゃなければならない理由」を、何か作っちゃうんです。
別に簡単なことで良いんです。たとえば主砲のコントロールを一人でする為には艦長しかできないとか。遺伝子コードを埋め込まれているから艦長の指でなければ作動しないとか。どんな台詞でも良いからそういう設定をちょっと入れて納得させる。
でも、もうクライマックスで状況をたたみかけていくスピード感優先になっているので、作り手もそういうケアをしなくてももう大丈夫だと思ってるんですね。
実際、ハンソンとかサンソンとか乗組員のみんなが悲痛な顔して下向いてたらそれなりに納得しちゃうんです。でも、よくよく考えてみたら、あのうちの誰かが「船長俺がかわります!」って言ったらそれで話が済んじゃうんですけども、船長も帰って来れるんですよね。
『トップをねらえ!』の第二話で、タカヤ艦長がオオタコーチを「こいつを乗せてくれ!」「ダメです艦長!」「馬鹿者! 若いお前は生き残れ!」って言うんですけど、どう考えても若者が生き残る正当な理由はどこにもないんですよね。
艦長と呼ばれるような経験者をひとり作り上げるのにどれだけのコストと手間がかかっているか。戦闘機パイロットの養成コストは、どんな高価な戦闘機よりも高価です【言い過ぎ?】。戦艦の艦長と若手士官だったら、その価値差は計り知れないでしょう。現代戦略から考えたら、最も事態と経緯を掌握している人間が情報を持って帰らなければ意味がないんですよ。
艦長は艦と一緒に沈むという美意識は第二次大戦の日本海軍のもの、それも実際の海軍ではなく、映画などで美化された世界です。責任者は絶対に生還して報告する義務がある。たとえそのために罪もない若い兵士を何百人犠牲にしても、です。
「責任を取ってその場で死ぬ」は敵前逃亡。本当の男なら「兵士を犠牲にして自分だけ生還して報告する。その後に軍事裁判を受けて死刑になる」という責任の取り方をしないとダメです。
私たちは、この作品に盛り込まれている熱血のノリで解釈するので、「艦長は艦とともに」と思ってOKサインを出してしまいます。合理的な判断力が曇ってしまって、これを疑問なく見れちゃうわけですね。
シナリオというのは、別に矛盾がないことが大事というわけでもない。
だからといって、ドラマツルギーとしてつじつまが合ってるかどうかが大事というわけでもない。
見ている人の「心の温度の管理」みたいものが大事なんですよ。
心が盛り上がってるときには、あえて必要なシーンでも入れない方がいいんです。「こうやった方が整合性が保てるな」というときでも飛ばしてしまった方が、物語全体の温度を冷まさずに済む。そのまま突っ走っちゃう方が大事なんですね。
ただ、『ナディア』最終回のこのシーンでは、あまりにもいらない人がブリッジにいすぎましたね。
「ちょっと待てよ、艦長である必要ないじゃん。もっと役に立ちそうでないやつ、いるじゃん」と思ってしまうんですよ。
その(8)に続く
『遺言』 岡田斗司夫著 筑摩書房 より