その(3)より続き その(1)はこちら
「後半戦になったら生きてくる」キャラの置き方
さて、『ナディア』を作り始めてすぐに、暗礁に乗り上げちゃいました。
NHK側は、一年分全三十九話分のストーリーを用意していました。
特番とか色々はいるから一年間だけど最初から三十九話の予定だったんです。
NHK側で雇った脚本家からその三十九話のプロット表が出てくるんですけど、これがあまり庵野君の気に入らなかったんです。
僕の気にも入らなかった。誰の気にも入らなかった。
なぜでしょうね。
平凡だったから?
違うな。
平凡なプロットは悪かないんです。平凡なプロットと言うことはつまり、普遍的な力を持っていると言うことです。
たとえば、「離ればなれになった兄弟が偶然出会い、力を合わせて事件を解決していく。初は憎しみ合ってるんだけど、力を合わせるうちに自分たちが兄弟だという事に気付いて仲直りしました」
これ、平凡なプロットだけど力強いんですよ。
力強いプロットなら、上にどんどんアイディアを肉付けしていけばいいんです。
NHK側のシナリオにもそういうアイディアがありゃいいんですけど、それもない。プロットが平凡なのに、アイディアもイマイチなんです。
読むと、かなり脱力感がでます。
やる気がなくなっちゃう。
庵野君が悩んじゃうのも、仕方がないんです。
それで、どんどん改変していきました。
具体的に言うと僕の好きなSFにしちゃったんです。
ナディアがアトランティスという失われた文明、一万二千年前に滅びてしまった文明の子孫であった、という設定はNHKとの打ち合わせで出てきたものです。
初期のプロットは、『海底2万マイル』(ジューヌ・ベルヌ原作。一九五八年にディズニーが映画化)をベースに、失われた海底文明があって、そこのお姫様がナディアだというものでした。心が綺麗で、動物と話が出来て、という、いかにもNHKらしいアイディアだったんです。
それに庵野君が、いかにも彼の好む少女マンガっぽいドロドロした人間ドラマを入れ始めたわけです。
僕がスタッフに入った段階で、最初にしたのが世界設定の切り替えです。
ナディアの一話は、第一回目の万博が開かれたパリの街が舞台でした。
パリ博のために建てられたエッフェル塔で話が進むというのは、もう最初から決まっていた事で、あんまり動かせない。
これをいかに面白くするか。
キャラクターデザインという部署まで交代した貞本君と一緒に考えたのは「どうやれば日本人をこの中に加えることが出来るのか」です。
ほっとくと、ジャンとかナディアとかガーゴイルとかサンソンとかハンソンとか、全部カタカナばかりの名前になっちゃう。どんどん浮世離れしていって、『世界名作劇場』みたいになってしまう。
そう言うと聞こえは良いんですけど、自分たちの普段の生活からどんどん離れた物になっちゃうんです。
『トップをねらえ!』では、宇宙戦艦という浮世離れしたものの中に、実在のメーカー名を入れたり、歩道橋みたいな身近にある風景を入れたりすることで、びっくりするくらいのリアリティが出せました。
自分たちが皮膚感覚としてわかる現実っていうのを、埋め込んでいくという手法です。
それと同じようなことが、キャラクターデザインでもやりたいなと考えたわけです。
どうにかして日本人を出せないのかなと。
で、調べてみるとパリ万博で薩摩藩がパビリオンを出してるんですよ。
第一回のパリ博当時、日本は開国への道を歩みつつある途上で、まだ明治維新が完了してなかったんです。
まだ薩摩藩があった。
じゃあ、その薩摩藩から金もらって国費で留学してる少年剣士が、ノーチラス号に乗って一緒に冒険する。
そういうのを考えていました。
当時、ナディアとジャン、この二人の関係を動かす第三のキャラクターが必要で、それは子供でいくというのは決まっていました。
マリーがまだ登場していなかったので、その日本人の少年剣士で考えてみたわけです。
子供だけど、一応腰には刀を差して、ちょんまげを結ってる。そういう不安定なキャラクターで動かそうとしました。
貞本君はこのアイディアにかなりノリました。
前田真宏君もそういう手のリアリティの作り方はすごく好きだったので、準備はしてみたんです。
でも当時、庵野君はいかにこのアニメを『ヤッターマン』などのタイムボカンシリーズに近づけるか、そこばかりに気がいってました。
庵野君が『ヤッターマン』に近づけたかった理由は「脱NHK」「脱ラピュタ」のためです。
小手先のキャラや設定を変更しては元設定や宮崎さんの呪縛から逃げられない。
思い切って『ヤッターマン』に近づけた上で、キャラ同士を絡み合わせて独自の世界を作っていこう。
『ナディア』というシリーズに自分なりのアレンジを加えるという、綱渡り状態だったので、どう動くか分からない不安定なキャラクターとか、使ったことがない曖昧な要素を入れる余裕がなかったんです。
それだったら普通のかわいい女の子で、ひらひらのスカートをはいてるマリーみたいなキャラクターの方が扱いやすい。
結局、少年剣士というキャラクターは、ボツになってしまいました。
貞本君も前田君もずいぶん愚痴を言ってました。
「なんで少年剣士、ダメなんですか」「ヤッターマンと同じじゃやる気出ませんよ」って。
というのも、この「少年剣士を入れる」というチャレンジは、単にキャラクターの問題だけじゃなく、世界観全体の問題でもあったわけです。
その後も「俺ちょっとこういうの思いついたんでやってくれない?」といっても庵野君から「ダメです」と言われてしまう。
貞本君と前田君と三人で一緒に隅っこで「なー、俺たちのアイディアのがいいのになー」とか、ちっちゃい声でぼそぼそ言う。
そういうことが続きました。
「村濱がんばってやれ! 庵野、お前が中心だ!」と言って『ナディア』を実際に作り始めたんですけど、いつの間にか僕と貞本君、真宏君の三人は、徐々に徐々に主流スタッフではなく、傍流スタッフになっていきました。
作品ごとに誰が主流スタッフで、誰が傍観するスタッフかが違うんです。
『ナディア』は、はじめて僕が傍観スタッフ、窓際族になった作品でした。
窓際族として何がやりたかったのかというと、『坂の上の雲』(司馬遼太郎、文春文庫)をやりたかったんですね。
日本では日露戦争直前の時代。ヨーロッパなのでそれよりちょっと古いんですけど、いわゆる国力=海軍力だった時代を描きたかったんです。
今、国力は何かって一言では言えないじゃないですか。
経済力なのか、人数なのか、兵力、軍備力なのか、もしくは科学力なのか。決められないですよね。
でも人類の歴史上、明快に「国力=海軍力」という時代がありました。
大英帝国のエリザベス女王の治世後期から、おそらく日露戦争あたりまで。
その時代は、国家の誇りや威信が全て軍艦というシステムに集約しています。
その当時の船は、単なる乗り物でもなければ、単なる兵器でもありません。
完全に城なんですね。城であって、一つの国のシンボルなんですよ。
日本の軍艦の名前が、金剛とか信濃とか長門というのは、神様の名前なんです。神様が乗り移って、神そのものが動いてる。そんな時代に現れるノーチラス号などの超兵器とを描きたかったんです。
SFアニメーションやマンガでやりがちなミスは、超兵器を出すとすぐ超兵器だけの話にしちゃうことです。
「ガーゴイルの新兵器だ、人類の兵器は全く歯が立たない」にしちゃうんです。
でも、これをするとイマジネーションが止まっちゃう。
超兵器が強すぎて話にならなくなっちゃう。ガーゴイルの新兵器といえども、人類の通常兵器でこのように弱点を突けば勝てるというのを作らないと。
『魁!!男塾』で、一般人と大豪院邪鬼しか出てこなかったら話になんないでしょ。
この間を埋める設定、富樫でもがんばれば邪鬼の顔に傷が付けられる、ということがないと話が成立しない。
でもアニメを作る人、SFが好きな人は、超兵器を出すと、すぐに「全く歯が立たない!」とか「バリヤが!」とか「ダメですー!」とかにしちゃうんです。
そうじゃなくて、通常兵器でもこういうふうに工夫して行けば何とか勝てるんだけど、やっぱりこの一線はどうしようもない、みたいなものが絶対に必要です。でないと、燃える物にならないんですよ。
『坂の上の雲』時代は、国家の力全てが海軍力に集中されて、新しい戦艦を造ること自体が、国民の悲願だった時代です。
まるでオリンピックや万博といった国家イベントを成功させるがごとく、国民が熱望し、それを誇った時代。
そんな時代に出てきた超未来兵器に対して、例えば、プリンス・オブ・ウェールズはどう戦うのか。
英国の軍艦はどう戦うのか、アメリカの最新鋭の軍艦はどう戦うのか!
みたいなものをやれば、なんとか三つどもえになるなって思ってました。
ネオアトランティスとノーチラス号が、ただ単に「超科学でございます」「ビームでございます」「バリヤでございます」「ピシピシピシピシ」とやって、それで終わりじゃなくて、「人類の科学も力を合わせれば第三の勢力として拮抗していくようなものにならないと、全三十九話はとても持たねえや!」と思ったんですよ。
そのためにも、自分たちと地続きのキャラクターが必要だった。薩摩藩の少年剣士は、その設定を導くためのものであったわけです。
当時、日本人が何を考えていたのか。海軍とは何だったのか。それまで鎖国していた日本が、開国して船を持つというのはどういうことだったのか。植民地というのは、なぜ必要だったのか。その弊害はどんな事だったのか。
アニメーションでどれだけ描けるかわかんないんですよ。ただ、TVシリーズなんて、作ってみないとどっちに転んでいくかわかんないから、先読みして、キャラクターを一つ入れとくわけです。
富野さんが『ガンダム』を作ったときも、カイ・シデンというキャラクターがあそこまで転がるとは絶対に読んでなかったですよ。
ただ、カイ・シデンというキャラクターをあの位置に配しておくと「あとで便利だ」というのが、動物的なカンでわかるんですね。
カイ・シデンを配しておいて、ハヤト・コバヤシがフラウ・ボウの言いなりになるんだけども、ちょっと言い返す、ちょっと尻に敷かれてるような感じ。
こういう風にやっとくと後半、ハヤト・コバヤシが「ああ俺はアムロのいつまでたっても後から行ってるだけだ」みたいなコンプレックスも出てきて上手く転がる。
一話からキャラクターが全てきっちり配置されてるわけじゃないんです。
一話の時はどっちに転がって行っても面白くなるよう、ストーリーとか世界が豊かになるよう、要所要所に布石みたいにキャラを配置する。
盤面が後半戦になったら生きてくるよう、パンパンパンパン打つ。
それが将棋型のキャラ設定です。
下手な人がやると、次々とキャラクターが死んでいくだけのチェス型になってしまいます。
とりあえず盛り上げるだけ盛り上がって、コマ数が少なくなって、ラストが決まらないんです。コマが少なくなるからストーリーはわかりやすいんだけど、最後の方は、言った言わない論争みたいになっちゃう。
「え?! ちょっと待って。それ先に言えよ」とか。
「え、ガーゴイルってほんとは人間だったの? じゃ先に言っとけよ」とか。
「諸葛孔明がもっと戦略をちゃんと説明しといたら、地球静止作戦も、そんな困んなくていいのに」とか。
自分の心の中で言っちゃうのは、あれは作品の作り方がチェス型だからですね。置いていったキャラクターが複合的に生きないんですよ。
富野さん世代とか、宮崎駿世代とかは、これがうまい。
逆に僕世代の作り手は、今川監督(─泰宏。一九六一~。
『ジャイアントロボ THE ANIMATION』など)も庵野監督もそうなんですけどもこの将棋的な、後で効いて来るであろうムダのあるキャラクターを置くというのができないんですよ。
キャラの見せ場とか魅力を作ることを優先してしまう。
結局、よく使うキャラとあまり使わないキャラの差がどんどん出てきて、ムダなキャラは生かせないままになってしまうんです。
『ナディア』も後半、グランディスさんは「どーなってんだいこれは」とか「一体何が起こったんだ」しか言わなくなっちゃうんですね。
切ないですよ。
自分のアニメなのに、そういう弱点が見えてしまうってのは。
まぁこの本は、自分やスタッフが作った過去の作品に関して、欠点とか弱点とか恥も含めて、全部さらしちゃおうというものなので、辛いですが話を続けてみます。
僕らの世代の作り手は、どうしてもチェス型になってしまうんです。
意外なところでキャラが生きてこないと、百年二百年持つ作品はなかなか生まれてこない。
当時、三十代前半の僕は、そこまで言語化できていたわけじゃなかった。
だからちゃんと説得できず、薩摩藩の少年を出したいと言うのは、「僕の勘だけど、このままじゃやばい」と言うしかできなかった。
あるあるキャラクターばっかりで作品が出来てくるのはわかるけど、もうちょっと地べたに作品下ろしていこう。そうじゃないと、超科学同士、スーパーサイエンス同士の戦いになっちゃう。
キャラクターも、トラウマ背負ったキャラクター同士が、極端な台詞を言い合うだけのドラマになっちゃう。
そうじゃなくて、もっとみんな事情とか立場を背負ってなきゃだめなんです。
事情というのは、「俺としてはこう生きたいんだけど、日本という国を背負っているからにはこう言わざるを得ないんだ!」とか、ガーゴイルにしても「俺の本当の気持ちはこうなんだけどでも、俺はネオアトランティスを背負ってるからこう言わざるを得ないんだ」みたいな、二面性が見えないと魅力的な悪役にはなりえないんです。
シャア・アズナブルでさえ、復讐だけで生きているキャラではないですよね。
ドレンという副官にどれくらい尊敬されてるかを気にしたり、自分のことを自嘲的に見てたり、多面的な光が当たってるからこそ、あの魅力的なキャラクターが出来てるわけです。
決して冷たいだけのキャラクターではない。
冷たいだけとか、復讐だけというのは、役割が割り振られている、キャラ化したキャラクターです。
キャラクターを縮小解釈したような、限定解釈したようなものは、さっき言ったようにストーリーが進んで、盤面が広がっていったときに魅力を失っていきます。
後半で全員が死ぬとか、みんなが傷つけ合うみたいな、過剰な設定、極端なストーリーといったものにならざるを得ないわけです。
それは、少なくとも金曜の夜の七時半に、お子様みんな見てくださいといって見せるようなものではないなと思ったので、色々提案したわけです。
それでも、さっきも言ったように、ガイナックス窓際班でございますから、僕と貞本君と前田真宏が出すアイディアが「またダメだった。へっへっへっへっ」となるわけです。
その割に、意外なものが採用されるんですよ。
前田真宏君が悪口で言った「ネモ船長の友達なんか鯨しかいないですよ!!」で、「採用!」とか。
「えっ!?」
庵野君の採用パターン、わからん!
その場の面白さで採用されて、わざわざ三十九話しかないエピソード丸々一話使って、「ネモ船長の友人」ってタイトルまでつけたはいいけど、それっきり何もない。
最終回になっても、鯨が助けに来てくれるわけでもない。
前田真宏も冗談で言ったのが採用されて。「えー鯨ですかぁ」って。友達が鯨だからといって、やりようがないんですよね。
まさかクジラの腹にノーチラス号の入れ墨入れるわけにも行かないしねぇ。
本当にキャラクターが使い捨てになっちゃうんです。
その(5)に続く
遺言
岡田斗司夫著 筑摩書房 より