3月の特集 テーマは「卒業」
2回目の今回は「オタクからの卒業」をテーマにお送りします。
「オタクは業」「オタクは生まれながらにオタク」
「オタク論を読むような奴はオタク」
「卒業するような奴は、元々オタクとまでは呼べない奴だったんだよ」
……卒業無理かも。
今回ご紹介するのは、発売当時、様々な場所で物議をかもした
「オタクはすでに死んでいる」です。
試し読み歓迎です!
では恒例の、内容の一部ご紹介。
◆「私たちオタク」好きなジャンルや作品は違っていても、「世間とは違う生き方をしていると一体感」みたいなもの。そういう「世間から外れた者同士の一体感」みたいなものがあった。
◆ああいうやつらを「おたく」と言うんだと決めつけられてから、私たちの民族が発生した。正確にいうと民族じゃなくて、私たちはもともとは他者から「強制収容所に入れられた囚人」でした。
◆強制収容所という狭い場所に閉じ込められたからか、このおたくたちは好きなジャンルは様々でも同じ収容所にいる他人の趣味についても、ある程度は知っていなくてはいけませんでした。
◆『オタク学入門』を書いたときに、私の心の中には強烈に一つのオタク像がありました。「自分が好きなものは自分で決める」という強烈な意思と知性。私がオタクという時には、この意味で使っていたわけです。
◆90年代初頭より、海外でのオタク評価の高さはたびたび紹介されるようになりました。それまでは「おたく」だと思われたら困る、と誰もが思っていたのです。それが一変しました。
◆SFは死んだ。「私はSFファンだ」というときの連帯感というか誇らしさ。それがまったくない。SFがファンにとっても、世間にとっても特別な存在ではなくなってしまっている。オタクも同じ道を辿っている。
◆文化的に定義された民族、それを保持するには、物理的な境界線とか、排他的な文化が必要です。縄文人の子孫は今いるけれど、私たちは縄文人ではありません。
◆「自分の気持ち至上主義」は、我慢や強調を強いる共同体の縛り付けを解きます。同族意識や共同幻想、すなわち「文化」自体も破壊してしまうのです。
◆「誰にでもある子供の部分は、他の誰かの大人な部分が面倒みてやるしかない」見知らぬ誰かの「子供な部分」というのは、その場にいるあなたの「大人な部分」でケアしてあげるしかない。
◆君は自分で感じたことを感じたまま楽しめばいい。これが好きだと思ったら、自分なりに、広い世界に発信しよう。同時に、まわりで発信している小さな声にも、きちんと耳を傾けよう。
本書の元となったトークイベント「オタク・イズ・デッド」はこちら。
できれば、最初からどうぞ。
2:22:00 頃からの最後15分、圧巻です。
「オタクは死んだ」
それは学校で例えるなら、
卒業どころか学校の方がなくなってしまっていたということでしょうか。
「SFの浸透と拡散」に倣って言うと「オタクの浸透と拡散」。
それは概念が広く一般に受け入れられたとも言えるし、
もうあの特別な仲間と熱気は戻らないとも言える。
「もういい大人なんだから止めなさい」って最近あまり聞かなくなりました。
大人だって誰もが一つはいつまでも卒業できない
オタクっぽいものを持っていることに気付いてしまったんでしょう。
大人も子供も、一般の人もオタクも、誰もが自分の気持ちを大事にしてる。
他の人に自分の気持ちを認めて欲しい。自分の気持ちのことばかりの子供と、
他の人のこと考えなきゃいけない大人って区別ができなくなってきました。
だったらこれからは「いつまでも子供でいよう」ではなく、
かといって「いつも大人の役割押し付けられる」ばかりでもない、
そんな世界がいいと思うんですけど。
「皆さんそんな世界はお好きですか?」
企画構成 :のぞき見のミホコ
ライター :無銘のマサフミ