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2010年05月27日

【社長日記】評価経済社会の誕生・2章 マルチメディア中世

 今日は、また「評価経済社会の誕生」の続き。
 ちょっと調子でてきたかな?

2章 マルチメディア中世

古代都市「シバーム」の遺跡(写真)

◆消えた古代都市

 古代都市「シバーム」をご存じでしょうか。イエメンに今も残る、紀元前四五〇年ごろの建築群です。日干し煉瓦でできた七、八階建てのビルディングが、五百棟以上、東京・新宿なんかと比べものにならないほど整然と林立しています。
 築後二千五百年を経て、今も七千人以上の人が住んでいる、と聞いて私は呆れながらも感動してしまいました
 同じイエメンのサナア旧市街はさらにすごい。街の一万四千棟以上もの建物は、ほとんどが紀元前一〇〇〇年以前に建てられたものだそうです。
 これほどの古代文明が、なぜ失われてしまったのでしょうか。私たちの文明には、一体どんな法則があるのでしょうか。

◆パラダイムシフトの時代

 前章で今までのパラダイム――「科学主義」「経済主義」が死につつあることを説明しました。
 私たちは、「科学主義」の中にどっぷり浸かってきました。だからそんなことを聞くと、ついつい「世の中が乱れてきた」「みんな、ちゃんと物事を考えなくなってきた」「これからどうなってしまうのだろう」と、世を憂える気持ちになってしまいます。
 しかし、心配する必要はありません。世の中は「乱れてきている」というより、「流れるべき方向へ流れて」いるのです。
 つまり歴史的必然、というやつですね。
 もちろん今現在、世の中には多くの齟齬(そご)や不都合があります。そのすべてを「これは歴史的必然であるから、文句を言うな」と決めつけてしまうつもりはありません。
 それはいくらなんでも、無茶というものです。
 しかし、1章で述べた「現代の若者たちの価値観(合理主義の衰退)」によって、多くの摩擦が起きつつあります。つまり、人々の価値観変化が社会変化に追いつけなかったり、あるいは社会変化がパラダイムシフトに追いつけなかったりしているのです。
 しかしパラダイムと社会は、お互いに影響し合いながら変化し、やがて落ち着くべきところに落ち着きます。だから私たちは、そんなにあわてふためく必要はないのです。

 なんか自信ありげに断言していますね。私がここまで確信を持ってキッパリ言えるのは、過去のパラダイムシフトのお手本があるからです。
 そう、パラダイムシフトとはもちろん、何も初めてのことではないのです。
 分かりやすいように、手近で小さなパラダイムシフトを例にとって説明してみましょう。たとえばダーウィンの「進化論」。
 彼の進化論自体は、単純な学説です。字にしてわずか十七文字。
 「生物は、環境に適応した種が生き残る」
 しかし私たちはいつの間にか、この生物学上の仮説の上に、自分たちに都合がいい社会論を乗っけています。

 たとえば私たち自身、弱肉強食を「仕方がない」ではなく、「正しい」と思っています。
 企業は、どんな立派な商品を作っていても、経済競争に負けたら倒産は仕方がない、と考えています。
 私たちは、貧乏な人たちが、ただ単に経済援助を受けて生活していることでは満足しません。それだけでは何か間違っているような気がします。「このままじゃ、人間としてダメになる」とか思ったりしてしまいます。
 そこで彼らが自分自身で生活できる手段なり能力を得ると、やっと安心します。弱いことは仕方がないことではなく、いけないことなのです。
 弱い者は助けられるだけではダメで、強くならなければならない、と心に刷り込まれているわけです。
 ところがキリスト教会が幅を利かせていたヨーロッパ中世では、こんな考えはメジャーではありませんでした。なんといっても「恵まれない者に与えること」は最も尊敬される行いだったのですから。
 
 また、私たちは「最新のモノはそれだけ優れている」と心の底で信じています。
 現代社会は、古代社会や中世より「進化」している、なんていう考え方はその典型です。昔の人は頭が悪く、無知だったから、変な宗教やファシズムに入れ込んだりした、なんて言う人は、今でも結構いるでしょう。
 これらの考え、世界観はすべて「進化論」のあとでメジャーになったものです。「進化論」が知れわたることによって、人々の価値観、世界観が変わり(パラダイムシフト)、それによって近代の幕が開いた、ともいえるわけです。

 しかし私たちは今、「進化論」程度とは比較にならないほど巨大なパラダイムシフトの時代を生きています。
 2章では、過去の代表的なパラダイムシフトをよく見ることで、私たちが今置かれている状況を客観視してみたいと思います。

◆人間のやさしい情知

 人間には「豊富なものをたくさん使うことを格好よいと感じる美意識と、不足なものを節約するのは正しいことだと信じる倫理観」が存在する。
 『知価革命』の中で、堺屋太一はあらゆる文明に共通の法則を、こう分析しています。
 この価値観を堺屋は「人間のやさしい情知」と名付け、パラダイムシフトの原動力と考えました。
 つまり人間というのは、その社会全体に豊富にあるもの、余っているものをたくさんどんどん使うことを「カッコイイ、やってみたい」と感じる。
 少ししかないもの、不足しているものを大切にすることを「正しい、立派なことだ」と感じる。
 そういう心が原動力となってパラダイムを変化させる、というのです。
 この章では、堺屋の言う「人間のやさしい情知」にのっとって歴史上のパラダイムシフトを再評価し、来るべき新世界を展望してみましょう。

◆農業以前の精神文明

 歴史上、最も大きなパラダイムシフトは農業革命と産業革命です。
 トフラーの言う、「第一の波」と「第二の波」ですね。まず、第一の波、農業革命によって、社会システムがどう変わったか見てみましょう。

 農業革命以前は、人々は部族ごとに分かれて住んでいました。
 魚を捕り、獣を狩り、貝や海草を採ったり、木の実や果実を採ったりして暮らしていたのです。
 部族ごとに縄張りのようなものはありました。しかし、食べ物がなくなれば部族ごと移動することが普通だったのです。彼らは土地に縛られることなく、暮らしていました。
 もちろん、移動に伴って争いも起こりました。
 部族は人数が少なすぎると、戦いは不利になります。しかし、人数が多すぎると、全員の食い扶持(ぶち)を探すのが大変です。自然に、数十人程度の小部族になったと考えられます。
 そんな世界で、人々の関心事は「今日、食べるもの」に尽きました。
 彼らはそれぞれ、太陽や月や鳥や猛獣など、自然の中の様々なものを「カミ」として崇めました。そして「今日、食べるもの」に恵まれるよう、彼らの「カミ」に対して祈ったり、占ったり、祭ったりしました。
 「今日、食べるもの」のために、他の部族と戦うための武器を作ったり、毒を塗ったり、呪いをかけたりしました。
 よそ者が迷い込んだ日に、大きな魚が捕れれば、よそ者を歓迎しました。逆によそ者が来たあと、病気が流行(はや)ると、よそ者を殺し、カミに捧げたりもしました。
 そういった知識を豊富に持っている老人を大切にし、言うことを聞きました。
 そのような事柄の中には、科学の時代の私たちから見れば、なるほど生活の知恵だ、と感心するようなこともあります。逆にあまりにも無意味で、眉をひそめるようなこともあります。
 しかし、彼らは彼らなりに「今日、食べるもの」のために、真面目で真剣であったことは確かなのです。

 モノが不足し、常に我慢を強いられる始代人たちの文化は、モノよりも内面、精神世界へ向かいます。
 これこそが「たくさんあるモノをパーッと使うのがカッコイイ、足りないものは大事にするのが立派なこと」という「人間のやさしい情知」の働きです。
 つまり、ひもじいながら有り余る時間を「思索」というきりのない作業に当て、モノに執着する心を蔑み、モノを使わないようにする、という考え方が生まれたのです。
 
 こうして始代人たちは宗教をつくり、その世界に浸りました。彼らの美術は写実主義ではなく、すべて抽象的であり、具体的な人間や動物も極端にデフォルメされています。
 別に絵が下手なわけではありません。そうではなく、本当の姿がどうであるか、というモノそのものより、それを見てどう感じたのか、どんなのが好きか、カッコイイか、といった主観を大切にした表現方法なのです。
 ちょうど現在のアニメーションに出てくる人間や動物が、極端にデフォルメされているのと同じですね。そんなわけで、始代人の文化は宗教的・抽象的で、時として私たちには分かりづらいのです。
 日本でいえば縄文時代がこの始代人たちの世界です。縄文式土器や火焔式土器は抽象性が高く、独自の美意識が強烈に感じられます。また米国のネイティブインディアンたちの文化も「モノ否定・精神性優位」の文化です。
 

◆農業革命と社会変化

 農業革命は、そんな状況の中で起きました。
 「今日、食べるもの」に、精いっぱいだった彼らにとって、農業は計り知れない魅力に満ちていました。
 明日、食べるものの保証が全くななかったのが、いきなり何十、何百日分の食料を一度に手に入れることができるようになったのです。
 彼らは夢中で耕し、種をまき、育てました。
 それまで海沿いや川沿いに、ぽつりぽつり住んでいた人たちは、耕しやすい平地に移り住み、どんどん畑を広げていきました。
 一族は力を合わせて畑仕事に取り組み、農地を子孫に残しました。農地は何よりも大切なものとなり、食べ物を求めて移り住むことは少なくなりました。人々は土地に縛られた代償として、飢える心配がなくなり、人口は爆発的に増えました。

 しかし、禍福はあざなえる縄のごとし。人間万事、塞翁(さいおう)が馬。農地が増えると、どこまでがだれの畑かといった揉め事が起きます。
 農耕をしない、他の狩猟民族たちが攻めてきて、せっかく蓄えた食料を奪っていったりもします。狩猟民族にとっては、食料とは戦って勝ち取るのが当然の正しいことなのです。しかし農耕民族にとって、それは最も憎むべき犯罪です。農耕民族にとっては、食料とは狩るべきものではなく、慈しみ、育てるものだからです。
 
 法秩序と、集団での武装や自衛が求められました。
 国家と法の誕生です。
 食料の新しい秩序を守るために、管理社会と身分制度が生まれました。
 どんなに農民たちが飢えようとも、来年の収穫を約束する種籾(たねもみ)、種芋(たねいも)だけは絶対食べてはいけません。また、収穫に応じてどの家族にどれだけの食料を配分するか、も大問題です。
 農業社会の成立によって、管理社会と身分制度は必然的に誕生したのです。
 当時奴隷は家畜と同じ扱いで、人権などありませんでした。それでも少なくとも家畜同様、最低限の食べ物を与えなければなりませんし、寝る場所も必要です。糞の掃除も必要ですし、逃げ出さないように気を配る必要もあります。複雑な仕事を奴隷ができるように分解し、監督するマネジメントも天変なのです。
 つまり奴隷制は、奴隷一人の働きで増える収穫が、奴隷一人の食べる量よりずっと上回る、という条件が整わなければ成り立たない制度なのです。
 古代の農耕技術の発達で急にフロンティアが出現したことによって、初めて奴隷制は成立できたわけです。
 国の領土拡大は、より多くの奴隷の獲得のためでもありました。

 土地を巡る身分制度は、農業革命の波が広がるにつれて、複雑化しました。
 まず、人々は「畑を持つ者」と「畑を持たず、働くだけの農奴」とに、二分されます。農奴はいくら働いても豊かになれない身分です。
 農業が発展して人々の生産力に余力ができると、今度は商業が発達しました。
 この当時の商業は、輸送手段を馬やロバに頼っていたため、細々としたものでした。しかし農奴から脱サラ(?)して商人になる者も生まれ、やがて、商人にも「商人としての権利」が生まれてきたりしたのです。
 
 こうして農業革命後の社会では、収穫の基礎である土地を巡る権利を、世襲で受け継ぐことが普通のことになりました。それまでの部族単位よりも、「血の繋がった家族」「長男の責任と権利」といった絆が重要になりました。
 また狩猟時代の「食料を見つける才能に優れた者」や「戦いで勝った者」が族長として部族をまとめる、というのは時代遅れになりました。族長の地位も、世襲で継がれることが当然になってきたのです。
 
 臨機応変が身上の狩猟社会とは違って、農耕社会とは毎日が同じことの繰り返しです。毎日、こんなに頑張っても、成果が出るのは半年も先。当然、作業をさぼる者も出てきますし、そうなれば見張る者も必要になってしまいます。
 こうして、族長の仕事は徐々に「王様」に近いものになっていきました。
 世襲で決まった王様は、農民たちの土地の所有を決定し、年貢を取り立てます。外からの侵略に対しても、王様が中心になって戦います。水不足や凶作といったトラブルも、すべて王様の決定事項です。
 人々は王に貢ぎ物、作物や獲物、宝物を献上します。
 王はその見返りとして、彼らの土地の権利を保障し、侵略者があると防衛することを約束します。
 きわめて原始的な「封建制度」が誕生したのです。
 
 今日はここまで。
 じゃ、また明日ね。
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