う~ん、いろいろ考えたけど、やっぱり文体は「である」でなくて「です・ます」に統一することにしよう。 ◆若者の価値観を見る 現在、起きつつある価値観の変化を実感するのは難しい。アダム・スミスも「あるパラダイムの中にいるとき、そのほかのパラダイムは想像することさえ難しい」と言っています。 ところで、ここから先しばらくは、いわゆる「若者たち」に対して「彼ら」という表現を使うことにします。これは一度、私たちの中の価値観変化を客観視するための便宜的な手法です。 ◆ネット内のオカルト まず「占い」。 そして「オカルト」。 たとえば「UFO」について考えてみます。 ◆私たちの内なるオカルト さて、ここまで読まれてきて、いかがでしょう。 また、私たちはTVの「霊能力者 vs. 科学者」といった番組を楽しんでみたりします。 ◆最も大事なもの「今の自分の気持ち」 この「自分の気持ちを大切にする」というのは、現代の若者を語る時の重要なキーワードです。 ◆もう「豊かになることによる幸福」が信じられない いえ、科学だけではない。経済も同じです。 ◆正しい未来 さて、技術進歩に注目するのが仕事のIT本の作者たちはともかく、トフラーや堺屋という、大変優秀な未来学者や経済評論家が提案する未来像が、ここまでズレてしまうのはなぜでしょうか。 私たちと彼らの価値観の最大の違い。 ◆科学主義者 今から二百年ほど前、ヨーロッパの片隅で産業革命が起きました。 この科学・技術が成し得た偉業は、どんなに言葉を尽くしても足りません。 また、科学の力は地理的な障害、身分の違いをも解消し始めました。 科学は人々に娯楽を与えただけではありません。 そんな科学を、かつての私たちは熱狂的に支持しました。 社会の上から下まで、みんなが本当に、腹の底から、それを信じていました。 これが科学主義者の行動原理なのです。 ◆再び「科学は死んだ」 科学主義と一口に言いましたが、実際はこのように民主主義・資本主義・西欧合理主義・個人主義といった価値観を含む一つの世界観のことだととらえてください。 産業革命と同時に宗教は死にました。 私自身、科学の発展に心躍らせたり、とにかくお金が儲からなくては話にならない、などという考え方をいつの間にかしなくなっていました。 ◆価値観変化の中心 ここまでで、私の言ったことを少しまとめてみます。 ではもう少し、具体的に「科学や経済に対する不信感・無関心」を説明してみましょう。 私たちは昔のように「科学の力は、何もかも可能にする」なんて考えていません。 医学の力も先が見えました。 これらはみんな「科学の発達」が限界まで来たということではなく、「科学を使って私たちが幸福になること」が限界まで来た、ということなのです。 ◆何が科学を殺したのか? 私たちの心を冷まさせた、現実的な原因は大きく分けて三つあります。 二つ目は科学者を信じられなくなったということ。 ◆マスメディアの親殺し 三つ目は、科学主義を切り売りするマスメディアに対する不信。 でも、それだけの問題ではありません。 また私たちは、TV番組にはスポンサーがついていて、そのおかけで無料でTV番組を見られることをみんな知っています。 また、ジャーナリズム、特にTVを中心としたマスコミは「そのまんま」が伝わってしまいます。どんな偉い科学者や政治家も、「案外気さくな人ね」とか「服のセンスがあまりにダサい!」とかのレベルまで全部が見えてしまう。 で、このような原因によって、科学主義の布教に最もめざましい活躍をしたマスメディアは、結果的に、科学を信じられない怪しげな存在にしてしまいました。 たとえば、今最も注目されている、エコロジー問題に対する私たちの考え方にも、それは顕著に反映されています。 一口にエコロジー問題といっても、熱帯雨林から酸性雨、大気汚染、オゾン層の破壊等々と様々な要素が絡み合っています。 ◆社会自身の「理系離れ」 たとえば学生の理系離れ、といった現象。 しかし今では理系を出て企業に就職しても、かえって不利だったりします。おまけに学生は、出世よりももっと自分らしさや自分の可能性を伸ばせる、おもしろそうな仕事を望んでいるのです。 無農薬野菜や、自然食品ブームはどうでしょう。 また、花粉症やアトピーといった、現代医学でもなかなか解決できないといわれている病気があります。 このように「科学は私たちを幸福にしてくれる」という信頼感は、すっかり下火になりました。『フランクリード・ライブラリー』に謳(うた)われた、輝ける科学と技術の二十世紀のイメージは今や見る影もありません。 ◆では経済は死んでいないのか? で、もう一つの問題、「経済」です。 おまけに彼らは、どんな仕事がしたいのか選べません。 「 ◆経済が輝いていた時代 この感覚を三十年前と比べてみましょう。 しかし、今の私たちは違います。 ◆「評価経済社会」 さて、これまでで説明したように、今の私たちは科学も経済も自分たちにとって特別大事なものとは考えにくくなってしまっています。 「今、訪れつつある新社会。それを『評価経済社会』と呼ぶ。 これをきちんと説明するのが、この本の目的です。 今日はここまで。
昨日書いたの全部書き直しだけど、まぁこの段階で変えるなら被害が少なくていいよね。
犯罪が発生したときに、まるで知っているかのように犯人像を述べる心理学者も、自分の心理は分析しにくい。
冷めてしまった自分の心を、この間まで好きだった人に説明するのは難しい。
自分自身の変化については、案外私たちは自覚していないのです。
では、どうすればいいのでしょうか?
若い世代を観察すればいいのです。三十年後の価値観は、いま現在の彼らの価値観の中に芽生えているはずです。
考えてみれば、日本が高度成長の時代だった1970年代、当時の若者たちはすでに「成長への否定」を始めていました。70年代の若者たちが成長した90年代、日本はバブル経済を卒業して長い停滞期に入ったのです。
これからを知るには、今の若者たちの行動や嗜好を知ること。それよって、私たち自身の「自分では気がつかない変化」を、知ることができるのです。
つまり一度、「他人事」として考えると、私たちの心も本音を出しやすいだろう、ということなんですよね。なので「やっぱり彼ら若者は理解できない」などと短絡的な結論に走らないように。あくまで「私たちの心の中にいる彼ら」イコール「私たちの心の中に芽生えている変化」をあぶり出すのが目的ということをお忘れなく。
変化は世代ではなく、時代で発生します。世代によって発現率や深度が違うだけなのです。
彼らは占いに対して抵抗感がありません。今やたいていの若者向けサイトやフリーペーパーには「今月の運勢」とか「今週の占星術」とかいうページがあります。星座、血液型、前世、おまじないと、占いを見ない日はないでしょう。JRの電車内にある広告用の液晶画面にも占いが配信されているほどです。
いっけん論理的でビジネスライクな人で、実は風水を信じている、というのも珍しくありません。
新聞やテレビ、ラジオが生活に入ってきて以来、現在ほど占いが幅を利かせている時代はこれまでになかったのです。
最近はスピリチュアルなどと名前を変えています。時代によって「前世」「超能力」「霊が見える」「都市伝説」など手を変え品を変えても、オカルトがなくなることはありません。
不思議ですよね?コンピューターによるネットワークという科学技術の粋を使いながら、世の中にはいまだ「アポロは月に行ってなかった」「9.11事件はドル札に予言されていた」などと言い張る人はあとを絶たず、またそれを信じちゃう少々おめでたい人も無数にいます。
科学の力を使いながら、非科学的な妄言を信じる人がどんどん増えている。「21世紀は科学の時代」ではありません。「科学によって迷信が普及する時代」なのです。
科学で迷信が普及する、という言葉に矛盾を感じますか?では実例で説明してみましょう。
著者である私は、UFOに関して中立です。すなわち「信じてはいないけど、否定もできない。だって証拠がないから」というスタンスです。これは占いや幽霊などすべてに共通する私のスタンスです。
ところが「UFOを信じている」という人たちは違います。
もちろんマジメなUFO研究者やグループにも、半信半疑で「とにかくデータを集めて自分なりに分析してみよう」と考えている人もいます。しかし大部分は、「とにかくUFOを信じてる」とか「何があっても、超能力を信じてる」「信じたい」というスタンスの人たちです。
彼らはそういったものの存在を「信じて」いますし、「信じたい」という姿勢なので、いつも「存在する証拠」だけをネットで調べます。
ネットを使えば「不思議なモノが空を飛んでいた」「光る物体が夜空を移動した」という情報など探し放題です。
また「目撃情報があったけど、政府によって隠された」という証言や伝聞もネットでなら探せます。が、UFOの存在を否定するような情報はハナから相手にしません。見えない、と言ってもいいでしょう。
懐疑派(UFOを信じない人は、そう呼ばれます)にそのことを指摘されても、「UFOの存在を隠蔽(いんぺい)するためのデマだ」ということになってしまいます。そして彼らのデータの矛盾をあげつらう懐疑派を、「地球の科学だけを盲信していて、宇宙の理知に目を開かない心貧しい人々」と決めつけてしまいます。おまけに「昔ガリレオ・ガリレイは弾圧の中……」と、自分たちの状況を説明したりもします。
コンピューターネットの利点「自分の仲間がすぐに見つかる」という機能が、こういう人たちに安息の場所を与えます。
ネット以前の社会なら、子供の頃に一時的にUFOにかぶれても、そのうちに卒業の時が来ました。
「オカルト雑誌の広告は、なぜ安っぽいダイエット商品ばかりなんだろう?」「政府が情報を弾圧してるなら、なぜUFO本や雑誌を通販で買えるのだろう?」
こういう健全な懐疑精神が大人になると芽生え、やがて「若気の過ち」として笑い話になったわけです。
しかしネットが居場所を与えてくれると、こういうツッコミ情報もブロックしてくれます。誰かが上手い言い訳を考えてくれて、そういう情報にアクセスせずに「信じたい情報」だけを毎日見ることも可能だからです。
もちろん、これらの現象を妄想だ、ばかばかしい、思春期にありがち、ととらえることもできます。あるいは今の若者たちは分からん、という世代差の話にしてしまうことも可能でしょう。
でも、私たち自身、こういったオカルティックなことを楽しんでいるとはいえないでしょうか。たとえば相手の血液型や星座を聞いて会話の糸口をつかむことは、今や出身地や年齢を聞くのと同様、当たり前のことです。
以前、私が社長を務めていたアニメ制作会社でも、血液型や星座の話で持ち切りになったことがありました。
「あいつはB型だから、この手の仕事に向いている」「あいつは乙女座のA型だから、総務を担当させよう」といった話を管理職である人間が白昼堂々と会議し、実際それで人事を決めたりしたのです。
今から考えると冷や汗ものですが、今やこういった話はそこいら中で聞くことができます。
そういうとき、私たちは本当に霊能力者がインチキかどうか、あまり気にしてはいません。昔のように「インチキなら科学の力で暴け!」とか「インチキでないなら科学者はこれを認め、その謎を解明すべきだ」とかは、考えないのです。
「ふぅーん、そんなこともあるかもしれない」。
これが私たちの偽らざる心情でしょう。
今の若者たちが、占いやオカルト本に対して持っている感覚も、これの拡大バージョンなのです。
いつの間にか少年マンガ雑誌からSFマンガが絶滅し、ファンタジーものという巨大ジャンルができてしまいました。
魔法や妖精、妖怪が存在するのは当たり前。それが今の子供マンガの世界です。
また、親の態度もこの傾向を助長します。
息子や娘が、小学校高学年になってもサンタクロースを信じている家庭が「良い家庭」、これが最近の育児雑誌の傾向なのです。
本当か、ウソか。
科学か、オカルトか。
そんな二項対立ではないのです。あえて言葉にするならば、気楽な第三者として「それって、あるある」「不思議を信じる自分の気持ち、大事にしたい」といった軽い感覚といえましょう。
軽い、というと、どうしても真面目でない、といったニュアンスが入ってしまいます。しかし真面目でないのは、科学的態度というスタンスに対してだけです。彼らとしては「気になる」とか「自分もそんな気がする」「おもしろそう」という”自分の気持ち”に対しては、きわめて真面目な態度なのです。
おもしろいと思うことを肯定する科学は良い科学、否定してしまう科学は悪い科学。
これが21世紀の科学像なのです。
恋愛も「相手とうまくいくか」よりも「自分の好き、という気持ちを大切にしたい」と考えています。だから、その気持ちを守るために現実の恋愛が破綻することも辞しません。
ある意味、すごく純真なのです。
仕事に関しても、安定した会社とか出世できそうとかを中心には考えません。
「こんな仕事に就いてみたい」
「自分の可能性を伸ばしたい」
という「自分の気持ちを大切にしたい」を優先します。
価値観の中心が「今の自分の気持ちを大切に」なのです。
こういった考えが主流になると、今まで考えられなかったような社会変化が起きます。また社会が変化すれば、構成員の変化にもますます加速度がつくでしょう。
そして、私たち自身の心の中でも、この感性・価値観は変化しつつあるのです。
かつての「科学が約束してくれた、バラ色の21世紀」はどうなってしまったでしょう?
家がコンピューター化されるということは、家の中で発生する有害電磁波が増えるだけ。どうせその電脳化住宅には、電磁波シールドのローンもくっついているんだろう。いったいこれ以上、何か便利になって、幸せが増えるというのだろうか。だれも見当がつかない。
実は私たちは、科学技術の進歩で自分たちの生活が今より便利になったり、楽しくなったりするなんて楽観的に考えられなくなってしまったのです。
コンピューター通信のユートピアを描いている点で、アルビン・トフラーの楽観的科学主義の限界もここにあるといえます。
「いい会社に入って、どんどん出世して、バリバリ働いて、いずれ社長になって……」というお題目は、もはや信じられない。それどころか、そういう人生が幸福だとはだれも考えられなくなっているのです。
この意味において、堺屋太一は完全に読み違いをしてしまいました。
これは経済評論家がよく言う、「豊かになったから、今度は楽しもう」といった、ゆとり思想とは違うのです。
若者たち、つまり私たちの心の一部はすでに、「豊か」が信じられない。だから、破滅してもいいから「楽しもう」というほどアナーキーなことを考え始めているのです。
もちろん未来のことですから、絶対間違っていると証明はできません。
が、少なくとも私たちの中の相当数(特に若者)が「この未来像って違うよな」と確信しています。
「こんな未来が来ればいい」と思っているならともかく、「ちょっと違うよな」と思っている生活を、私たちが突然選択することは、あまり考えられないことです。
それなのに、トフラーや堺屋はそんな未来を予測してしまった。
なぜかというと、実は彼らにとっては、そんな未来が「正しい未来」「あるべき未来」だったからなのです。
つまり、さっきのUFO信者と同じですね。現実のデータより、自分の見たいデータを見てしまい、見たくないデータは「取るに足りないこと」として見逃してしまうのです。
では、彼ら(トフラー・堺屋)と私たちの考え方の違いをはっきりさせましょう。
ここでの「彼ら」という言葉も、再び便宜的なものです(正確には「私たちの中で変化しつつある価値観、その旧世代型を『彼ら=トフラー・堺屋タイプ』と定義し、新世代型価値観を『私たち=若者を中心に広がりつつある価値観』と定義することによって、自分の心の中を客体化しつつ観測が可能になる」という、すごく面倒に聞こえる行動です。要するに他人事と考えて、自分の心を覗きましょう、ってことですね)。
それは、あえて名付けるなら彼らが「科学主義者」であり、私たちはすでにそうではないという点にあります。
「科学主義」とは、基本的には「科学の発達が人類を幸福へ導いてくれる」という人々の考え方のことです(ここでは「科学主義」を、従来の価値観、感性を説明するための用語として使うことにします)。
しかし、あえてこのヘンな言葉を使うことによって私たちのスタンスが見えてくるのです。
そう、私たちもかつては科学主義者だったのです。
それを機に、科学技術は急速に発達しました。農業の発達によって、人々が飢えから救われたように、工業の発達は人々の暮らしを驚くほど豊かにしました。
暑さ寒さを防ぐ住居や衣服が量産され、家電製品が整って便利になっただけではありません。演劇、ファッション、グルメ、車、レジャーと、それまで貴族によって独占されていた特権、娯楽がすべて大衆のものとして開放されたのです。
医療制度が人々に何を与えてくれたかは、あえて説明するまでもないでしょう。
それまで貴族の館でしか聴けなかった室内管弦楽。
しかし科学の力は、音楽を大衆に開放しました。一部の貴族ではなく、大衆が音楽を聴くために造られた巨大な音楽ホール、その中では音楽自体も科学化、産業化されました。「指揮者」「弦楽器パート」「管楽器パート」と、最新の工場のように演奏者の役割は割り振られ、完全に完成された交響譜面の通りに正確に音楽は演奏されたのです。
線路は果てしなく延びて、旅行ブームが訪れます。かつて貴族のみが楽しめた「冒険」は失われ、スケジュール通りに進行できる「旅行」が、それに取って代わりました。その時代のベストセラー小説ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』を読めば、そんな時代の雰囲気を感じることができるでしょう。
「演劇」は、都市の住人、つまり市民でなければ見られない娯楽でした。しかしそれを、科学は「映画」に改良しました。これによってどんな地方でも、映写機さえあれば都市の住人と同じ娯楽が見られるのです。興行関係者は、この「地方住民からの収益」の多さに驚き、あわてて「だれにでも分かりやすいストーリー」を制作者に要求しました。聖書やシェイクスピアを諳んじてなければ理解できない難解なテーマよりも、単純な勧善懲悪ストーリーが映画の主流になりました。
地方の観客は、映画にストーリー以外に都市の最新流行のショーケースとなることを要求しました。ここにおいて、映画は「流行の素材を使って普遍的なストーリーを語る」、という現在のハリウッドスタイルの原型を手に入れたのです。そしてこれに続くラジオ、新聞によって「都市に住める身分の人々」と「地方にしか住めない人々」との差は、急速に縮み始めたのです。
科学が、人々を「市民」にした。
科学が、人々の楽しみを普遍化、平等化することによって身分制度、封建制度を壊滅させた。
科学には「前世紀の貴族の特権と楽しみを市民に開放する」という大義名分があったのです。
ああ、科学ってやつは、なんてすごいのでしょう!
人々は目の色を変えて量産し、目の色を変えて買い、目の色を変えて遊んだ。
家の中はモノであふれ、お父さんは忙しくてほとんど家にいられないくらいだった。
その当時、人々はみんな科学主義者であった、といえます。
人類は科学の力で、やがて月や火星にも植民地をつくるだろう。
人類は医学の力で、どんな病気も治せるようになるだろう。
人類は合理主義の力で、やがて地上から戦争を撲滅するだろう。
人類は民主主義の力で、最大多数の最大幸福を追求した政治を実現するはずだったのです。
それを信じたから、人々は邁進しました。浪費は消費を拡大するので美徳だと考えました。新型の電化製品は少しでも早く手に入れなければいけない。それがステータスだったというだけではありません。それが「私たちの繁栄」を体現したものだったからです。
まだ使えるなんて言っていては、今の世の中やっていけない。新型を買わないと、科学も経済も発達しないではないか。「もったいない」と辛気臭いことを言う年寄りもいました。しかし、私たちは彼らを田舎に置き去りにして、生産に、消費に、合理化に邁進したのです。
日本では戦後、世界の警察を自称していた時代の元気なアメリカから入ってきた、例の価値観やスタイルのことだ、と考えてもらっても差し支えありません。
トフラーや堺屋は「世の中の価値観が大きく変わりつつある」と言いました。
しかし予測という感覚的な作業だと、ついつい若いころから染みついた、この「科学主義」で考えてしまうのです。
でも、繰り返し言いますが、私たちはすでに、そんなに楽観的に科学や合理主義、資本主義経済を信じてはいません。そのため、トフラーや堺屋と、ギャップが生じてしまうのです。
本当は、私たちはもう科学に多くは期待していないということを認めてしまった方がいいのです。でなければ、「合理的に解決する」という建前、価値観の残骸だけが残ってしまって、新しい価値観との狭間で苦しむだけなのだから。
だから私は、ここでもう一度、言わなければなりません。
科学は死んだのです。
もちろん、死んだといってもその影響力が完全になくなったわけではありません。それどころか世界の大半では、いまだに最大の価値観の一つなのです。
しかしあの、人々が無批判に宗教を信じていた時代はもう、永遠に返ってきません。
今の日本では、聖典の中身に、ある程度の整合性がなければ信者は増やせません。
合理的な宗教!
なんて「堕落」なんでしょう。キリスト自信が聞いたら激怒モノです。科学の前に宗教がひざまずいたのです。科学が、合理主義が、世界を席巻した瞬間、宗教は「その他大勢の価値観」の一つに甘んじるよりほかはなかったのです。
それと同じく科学も今、死を迎えています。どんなに科学者たちが正論を合理的に言い募っても、私たちにはもう、それが魅力的には聞こえません。
「ふーん、それ本当なの?」とまず、疑ってしまう。
科学が私たちを幸せにしてくれるとは信じていないからです。
今から40年前、七〇年大阪万博のころ。
私を含め、日本人みんなが、まだまだ科学技術の進歩に期待していました。アポロ11号の月面着陸に心躍らせ、月の石見たさに何時間も行列をつくりました。それがいっこうに苦痛ではなかったのです。
確かに科学の進歩によって、公害や交通事故など困った問題も出てきました。しかし、そんな貧乏くさい話題をしたがるのは一部の変わり者、ひねくれ者だと思っていました。
それに、そういった問題すらも「公害除去装置」「自動運転システム」といった科学的手段で何とかなるはずだ。今はまだ日本は貧乏だから無理でも、アメリカが開発しているに違いない、などと能天気に考えていたのです。
日本は高度成長のまっただ中で働けば働くほど仕事は拡大し、会社は大きくなり、家の中に電化製品があふれた。みんな残業も休日出勤も当然のこととこなして給料も上がり、出世もできた。
私はそのころ子供でしたが、もちろん将来は科学者になるんだと決めていました。クラスの男の子もみんな、科学者になるか、サラリーマンになりたいと言っていたのを憶えてます。意外に聞こえるでしょうが、サラリーマン、という経済戦士もまた、当時はあこがれの的だったのです。
それがたった二十五年で、こんなに変わってしまった。
「科学の時代」は終わってしまったのだから。
(1)社会全体が巨大な変化の時期を迎えている。
(2)そのため、従来の価値観が全体として明らかに破綻しつつある。
(3)変化している価値観を特定するために若者の嗜好を観察すると、価値の中心に「自分の気持ち」を置いていることが分かる。
(4)「自分の気持ち」が第一なのは、既存の価値観では、幸福が追求できないことが明らかだからだ。
(5)彼らや私たちの価値観変化の中心には、私たちを幸せにできない「科学」と「経済」への信頼の喪失があることが分かる。
科学の力で人類は月へ行ったが、実際に行ってしまうと「別にいいことがない」というのがバレてしまいました。
月に行くには、ものすごい苦労や労力や経済力がかかる。とにかく大変です。それなのに、月にも火星にも、いや科学の力で行けそうなどこにも、ウサギも宇宙人も宝物も特別の鉱物や宝石も何もない。
絶対零度でできることも真空でできることも、特別すごいことは一つもないとわかってしまった。これからどんなに科学が発達して、銀河の外まで行ったって大したことはないと、みんな薄々感づいてしまったのです。
コンピューターも、人工知能だとか言われていたころはよかった。
しかしそれが実生活の中に入ってくると、銀行のキャッシュコーナーだったり、多機能炊飯器だったり、ぱっとしません。
会社のOA化も、部署ごとにバラバラで互換性がなかったり、突然統一するとか言われて前のデータが使えなくなったり。だいたい新しく導入されるシステムに遅れないように勉強しなければならず、どうしてもメーカーに騙されている気になってしまいます。
コード接続や試行錯誤やシステムクラッシュ、不意のハングアップ、意味不明のエラーメッセージにとられる時間を考えると、本当に効率が上がったかどうかすら怪しいもんです。
家で自分用のパソコンを買って仕事に役立てようとしても、こんな時にだけ鼻の利くシステムが、ファイルのバージョン違いを言い立てる。
マシンやソフトをバージョンアップしてもバージョンアップしても、そのたびにお金も払い、時間もかけ苦労したはずなのに、使いきれない。ネットに繋いだらウィルスや怪しい広告が私たちを騙して被害を与えようと待ちかまえています。
コンピューターなんか買わないで全部手でやった方がよかったのでは、という気持ちが、ときどき心をよぎってしまいます。ああ、なんだか本気で愚痴っちゃうよなぁ。
ガンやエイズの特効薬が見つからない、というレベルの問題だけではありません。
たとえばアトピーや花粉症、うつ症や成人病など現代病と呼ばれる病気がクローズアップされています。しかもそれは予防とか体質という名目で、個人の責任に戻されてしまうことが多い。
不老不死とまで言わなくても、せめて寿命が尽きるまで元気に暮らさせてくれると思っていた医学も、当てにはできないようなのです。
言い換えれば「もう科学に夢を持てなくなった」「もっと科学的になろう、合理的になろう、文明を発展させようという気持ちが消えてしまった」ということです。
熱烈な恋からいつの間にか冷めてしまうように、私たちの心はいつの間にか科学から離れてしまったのです。
一つ目は先ほど述べた科学自体の限界。
今後どんなに科学や技術が発達しても、私たちの幸せとは大して関係なさそうだということ。もちろん科学や文明がなんらかの原因で崩壊してしまえば、みんな不幸のどん底につき落とされるのは間違いありません。でも「不幸でない」のと「幸せになる」とは全く違う問題です。
昔の科学者はエジソンにしろ野口英世にしろ、英雄でした。科学者はその研究成果を通じて、全人類に貢献したと讃えられました。
ところが今や、そんなイメージはほとんどありません。科学が発達しすぎ専門化しすぎたせいで、科学者が専門外のことが分からず、重箱の隅をつつくような研究に走りがちなことを私たちはみんな知ってしまったのです。
一昔前のSF映画に出てきたような「なんでも知ってて、頼りになって、新兵器の開発までしちゃうスーパー科学者」なんて、いるわけないですね。
そのうえ、科学者や技術者の後ろには、いつも企業や政府の影が見えます。
研究には莫大なお金がかかるので、それも仕方がないことを私たちは知っています。
御用学者という言葉が示す通り、科学者や技術者が私たちと同じ雇われの身であり、自分の会社のために働いたり発言したりすることも私たちは知ってしまったのです。
彼らが、研究成果をどんどん発表し合い、次々と研究を進めているのではなく、企業の利益や自分の名誉のために秘密を保持しながら研究していることも私たちは知っています。
コンピューター技術者にいたっては、新発明=ビジネスモデルです。彼らは考えられないような富を築き、優雅に好きなように暮らしている。私たちが憧れるとするなら、それは彼らの富が理由であって、けっして彼らの思想や行為が理由ではなくなってしまいました。
ジャーナリズムを中心としてマスメディアは、一貫して科学主義の布教につとめてきました。
特に科学の申し子ともいえるTVは、「アポロ11号の月面着陸」の衛星放送をクライマックスとして、全世界に科学主義を布教するというめざましい力を発揮してくれました。オリンピックも万博も、世界の警察アメリカの活躍も、日本の高度経済成長も、みんなTVを通じて布教されたのです。
ところが、科学主義にかげりが見え始めると、マスメディア内の主張の矛盾や意見の食い違いが目につくようになってしまいました。
科学的態度からいえば、最良の答えはたった一つに絞り込めるはずです。きちんと実験したりデータを集めたりして検証すれば、どれが正しいか効率がよいかはっきりし、意見は統一されていくはずなのです。
ところが実際にはそうではない。むしろ意見は分かれ、科学者の数だけ学説があるらしいのです。確かにその原因の一つとして、視聴率や売り上げが上がればよしとするマスメディアにも問題があります。目新しくおもしろい情報を求めるあまり、その正確さを二の次、三の次にしてしまう。これは多くの視聴者が、目新しくおもしろい情報を求めるあまり、その正確さを二の次、三の次にしてしまうのと表裏一体になっています。
だれにでも一つや二つは、きっちりと知っておきたいことがあります。それは人によって健康のことだったり、教育のことだったり、経済のことだったり、様々です。
が、どんなことであろうと、マスメディアを通じて情報を集め出すと、必ず矛盾する結論やデータが、いくつも手に入ってしまう。この時点で普通の人は「科学的な正しさ」で物事を判断すること自体、あきらめざるを得なくなります。
こうして視聴者は、おもしろい情報だけを見るようになり、マスメディアはますますおもしろい情報ばかりを流すようになるのです。
TV番組は無料でも、代理店とスポンサーがついている。
雑誌は有料でも、広告ページという形で様々なスポンサーがついている。
どのマスメディアにとっても、共通の最終的スポンサーである政府の存在がある。
それらのスポンサーが圧力をかけているため、流せない情報があったりするのも、私たちは公然の秘密として知っています。
たとえば、育児雑誌で「あなたは布おむつ派? 紙おむつ派?」という特集があったとします。その記事は一見きちんと取材され、自由な視点で比較されているかのように見えます。しかし、そのすぐあとのページで紙おむつのカラー広告が二ページ見開きであったりすると、先ほどの「自由な視点」なんか、信じられるモノではありません。
学者や政治家同士の討論も、いかに科学的・合理的に話し合えないか、いかに他人の言うことを聞かずに自分の意見を必死になって主張しているかが丸々見えてしまう。
出演者同士の気兼ねや牽制(けんせい)のし合いも何となく伝わってしまう。
新しい学説や政策も、それをだれが説明するかによって印象はまるっきり違ってしまうのです。いきおい、出演する方も過剰演出になり、極端な意見になり、ますますどの意見も信用ならない印象となってしまうのです。
マスメディア自体、科学の発達の中で生まれ発達してきたものの代表、優等生なのだから、科学に対して親不孝なことです。
こうして、科学自体も科学者もマスコミの吹聴する科学データも信じられなくなった私たちは、「科学主義者」としての態度を捨ててしまいました。
ネットの存在は、以上の事態をますます加速させます。かつて「ネットこそ、マスメディアを相対化する大衆の知的ツールだ」と持て囃された時代がありました。
しかし情報があふれればあふれるほど、「正しい情報」にはたどり着けなくなります。ネットによる情報の洪水は、より「正しい意見」を生み出しにくくして、私たちを不安にするのです。
◆理系離れの「エコロジー問題」
エコロジー問題というのは、実は大変科学的にとらえやすい問題なのです。
大気中の○○含有量が○ppmだとか、オゾンの量がウンヌンとか、このままの増加率でいくと○年後には何ヘクタールの森林が丸坊主になるとか。
科学主義的に考えると、本来こういった科学的問題は、科学者がきちんと考えて、ベストの解決法を見つけてほしいもんですよね。
その上で政治家や官僚が、それらのデータに基づいた合理的・効率的な方策を実行し、エコロジー問題は「解決」されるはずなんです。
ところが、もちろんそうは問屋がおろしません。
これらを解決しようとすると「どの順番でするか」「だれが金を払うか」「どの学説、データを採用するか」「どの企業が請け負うか」「それによってみんなの生活が不便になるけど、どの政治家が矢面に立つか」などという、だれも手を出したがらない問題のオンパレードです。
これらの問題や利権を、「人類全体の幸福」という抽象的な基準で合理的に判断して、制限するなんてことは、もはやだれにもできません。
だからこそエコロジー運動は、「リサイクル運動」だの「割り箸を使わない運動」だの「私たちができる小さな運動」だのの形を取らざるを得ないのです。
だって、それ以外に信頼できる解決法が見えないのだから。
これらの運動は、目標といっても空き缶の回収が何トンになったという程度かもしれません。
だからその結果、大気やゴミの状況はどうなったか、実際はあとどれぐらい汚染減少を必要とするのか、そのためには何を何トンずつリサイクルすればよいか、といった合理的・科学的な判断をしなくて済むのです。
もっと気楽に考えていい、というわけ。
また「数の力で国や自治体に圧力をかけて」といった、従来の運動をしなくても済む。
そういったことよりも、「一人でも多くの人がエコロジーに関心を持ってくれること」といった”気持ちの問題”としてとらえることが大切だ、というわけです。
これは、最近の若者の価値観で触れた「自分の気持ちを一番に考える」にぴったりフィットしています。
エコロジー問題に関するみんなの考え方の変化を見ると、明らかに科学的思想がマイナーなものになってきたというのが分かります。
このような考え方は、明らかにある種の「諦め」という感情の上に成り立っています。科学的・合理的解決法に何も期待しないからこそ、心情的な解決法を採るのです。
さらに、具体的な例を挙げてみます。
一昔前は成績の良い者、数学のできる者は当然のように理系の学部に進学しました。理系の学部を卒業して企業に入り、技術畑で成績を上げるのがなんといっても出世コースだったのです。
原子力発電所問題も面倒です。
「夢のエネルギー・原子力」という宣伝文句で登場した原発。でも実は、廃棄物を他の国にまでこっそり捨てに行かなくてはならない。おまけに、それも返されてしまうという超環境破壊システムだ、なんて私たちは聞かされていませんでした。
科学者と役人と企業のサギに引っかかった、と思った人も多いでしょう。
やめようと思っても、向こう数万年は厳重な監視を必要とし、核融合にいたっては現実的なめどは全く立っていない、ということ。
これらのことをみんな、何となく気づいてしまいました。
「科学科学と浮かれていたら、えらいことになった」
「何も考えずに科学だ発展だ開発だと言ったら、あとで大変な目に遭うのは自分たちだ」
という気持ちがみんなの中に生まれてしまったのです。
科学の力で造った原子力発電所が科学の力ではどうしようもなく、政治的解決を待っている、ということは科学に対する巨大なマイナスイメージになりました。
だからといって科学を捨ててオカルトに走っても、放射性廃棄物をクリーンにする白魔術なんて、あるはずがありません。やっぱり解決も科学に頼らざるを得ないのです。
みんな、そのリクツは分かっているのですが、何かタチの悪いヤクザに引っかかったような気がしてなりません。
昔は人畜無害の表示を信じて殺虫剤をまきすぎ、子供を死なせてしまう母親もいました。しかし今は「害虫は殺すけど、人間には無害な薬品」などこの世に存在しない、ということをみんな感じています。
そのリスクをどれぐらいに見るかは、個々人で差はあります。でも、もし同じ値段、同じ条件で普通の野菜と無農薬野菜が売られていたら、どちらが売れるかなどは考えるまでもありません。化学肥料も同じです。
みんな仕方なく薬品など「不自然な物」を使っています。しかし本当は自然(それもまた、イメージの中の自然なのだけど)がいいと考えているんです。
農薬などを開発する人たちが、どんなに頑張って素晴らしい農薬を造っても無駄です。消費者たちは「いーや、科学なんかより、自然の恵みの方が素晴らしいに決まってる」と、えせエコロジストの受け売りみたいなことを言って拒否するだけですから。
どちらも環境汚染や食品公害といった問題を抱え、エイズやガンなどのように死者が出ないので、医学界も本気になって研究していないようです。患者たちは症状をやわらげるために、体には良くないと知りつつステロイド剤などを使用しています。
そう、彼らにとって科学は救済ではなく、加害者なのです。
そのため、医者を見捨てて、民間療法に切り替える者も多い。
科学的に効果が実証されていなくても、とにかく効くという噂を聞けば試してみる、という態度が普通になりました。鍼(はり)や怪しげな整体に行く人も大勢います。現代医療に対する不信感は相当大きくなっているのです。
科学主義はすごい勢いで終わりつつあるのです。
現在の若者は「経済」に関して不信感を持っている、と私はさっき書きました。
ここまで読まれた方には、「科学が信頼をなくしたのは分かる。しかし、経済は違うのでは? 若い世代は、より拝金主義になってるといえるはずだ」と考えた人も、多いのではないでしょうか。
しかし私は、こう考えます。
もし今の若者たちが本当に拝金主義ならば、彼らの就職、結婚の対象は、もっと経済的に有利な方向へ向くはずだ。
が、現実は違います。
今の学生は、より給料が高い企業、より安定した企業を就職活動の第一条件にはしていません。もちろん、最低これだけの給料は欲しいという希望はあるでしょう。今にも潰れそうな会社に好き好んで入ろうという奇特な人もいません。
しかし同時に「おもしろいことをしている企業か」「自分におもしろいことをさせてくれる企業か」「自分にとってプラスになる経験ができ、ネットワークができるのか」といった判断材料の方が大きなウエートを占めているのです。
給料がたくさんもらえるとか、退職金が多いというのは、決定的な判断材料にはならないのです。
一般的にいわれている「現代の若者像」はウソなのです。
就職難で選択肢が少ない、というだけではありません。「やりたい仕事」が決められない。
私か子供のころ、小学生に対するインタビューで「将来の希望は?」という質問がありました。断然一位はサラリーマン、でした。当時の評論家たちは夢がない、なんて言ってたけど、逆ですよね。経済に対して一般的に信頼感のある時代は、子供はサラリーマンになりたがる。軍事に対して信頼感があれば、子供は軍人になりたがるのです。
今の子供は「何にもなりたがっていない」のです。
就職しないのは学生生活を続けられないドロップアウト組と呼ばれる、どうしようもない連中、とされていました。
しかし今や、大学院へ進む学生は急増しています。
また、大学を卒業してからもう一度、他の大学や専門学校に入り直す学生も珍しくありません。マスコミは「モラトリアム現象」と騒ぎますが、彼らは口をそろえて「もっと勉強したい」と言います。たとえ就職しても、時間の余裕のある仕事に就いて勉強は続けたい、と考えているのです。
これを見て「ずっと遊んでいたいだけ。学生気分が抜けていない」「責任ある大人になるのがイヤなオタク世代」と、頭の悪い評論家たちは批判したりします。
本当にそれだけなんでしょうか。
一流大学生も、フリーターも、専門学校生も、みんな口をそろえて言うこの現象を、そんな決まり文句で断ずるには無理がありますよね。
「ちゃんと就職すること」「きちんと働いて稼ぐこと」「この経済システムの中に所属すること」という価値観がすっかり崩れている。この「価値観の変化」をきちんと見なければ、何も論じられるはずがないのです。
働く理由」「働く意味」が失われてしまうと、もう「とにかく最小労力で最大利益を上げること」が唯一の回答になってしまいます。
「科学」に対しての「科学や合理主義は、私たちを幸せにする」という価値観が崩れたから、科学は信頼を失った。
同じように「経済」も、その内部に「一生懸命働くことが、みんなの幸せにつながる」という価値観を含んでいないと、信頼を失ってしまうのです。
すなわち、「お金は私たちを幸福にしてくれない」。
GNPが世界で五位になった、三位になった、二位になった、と上がるたびに新聞は大騒ぎ。国民は心から喜んで誇らしく思いました。戦争に負けて以来、ペッチャンコになってしまった日本が、どんどん立派になっていくのが自分かちのこととして誇らしかったのです。
だから、それを励みにして、国民はよく働きました。
死に物狂いで働くことが、自分たちの生活を向上させ、日本を立派にすることと直結していたからです。
勤勉は美徳。
まさか、よく働くことが他の国の経済を圧迫し、環境を破壊し、資源を浪費することだなんてだれも考えつかなかったのです。
製品を大量生産することに、なんとなくいかがわしさを感じてしまいます。より安く原材料を買い叩いたり、より安い賃金で他の国の人をこき使ったり、より無駄のない清潔な工場の生産ラインを整えたりすることに情熱を持てません。大げさな言い方をすると、そんなことに「正義」を感じられないのです。
そんなことのために、自分の大切な時間をたくさん使うなんて!
残業も休日出勤も、そんなことのために頑張る理由が一つもなくなってしまったのです。
この感覚は、別に私たちが(特に若者たちが)人生経験が浅く、苦労を知らず、甘やかされて育って、社会の厳しさを分かっていないからではありません。
むしろ「科学至上主義」「経済至上主義」の刷り込みが少なくなって、その分、新しい価値観の刷り込みが知らないうちに行われてきたから、以前の価値観に執着しなくなっているだけなのです。今から三十年後、現在の大学生が五十代になるころには、この本の中で述べる、新しいパラダイムが主流になっているはずです。
そのころには「科学的」「経済的」な思考は、もし、まだまだメジャーであったとしても年寄りくさい考えになっているでしょう。
がむしゃらに働きたがるのは年寄りだけ、医者の言うことを素直に聞くのは年寄りだけ、TVを見るのは年寄りだけ、という時代を私たちは迎えつつあるのです。
では、次章からの話です。
今までのパラダイムが崩壊しつつあることは確認できました。では今、生まれつつある新しいパラダイムとはどんなものでしょうか。
私はそれを、このように定義しました。
貨幣経済社会とは、社会の構成員が、その最大の貨幣的利益に向かって邁進することによって安定する『動的安定社会』である。それと同じく、
評価経済社会とは、社会の構成員が、その最大の評価的利益に向かって邁進することによって安定する『動的安定社会』である」
この本では今まで断片的な現象としてしか語られていなかった、このような価値観の変化による社会変化、パラダイムシフトを総合的な観点からとらえて、今、何が起こりつつあるのかを明確にしようというものです。
その上でこれから将来、社会はどう変化するのか、私たちは何を準備すればいいのかを提案してみます。
じゃ、また明日ね。
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