twitterで「岡田さんの事務所って、事件のあった物件ですよね?」と聞かれた。 指摘されたとおり、ここは「事件のあった物件」だ。 不動産屋で契約の直前にその話を聞いて、一瞬ひるんだ。 冷静に考えてみると、僕たちがオバケを怖がるのは①②③の三条件を「すべて兼ね備えている」と思いこんでいるからだ。 ③無限のパワーを持って、逆らえない感じ これまでのバックナンバーはhttp://shachou-blog.otaking-ex.jp/で読めるよ。
その通り。
いま使ってる事務所は三階建ての建物だ。一階に大家さんが住んで、その二階と三階を僕は借りている。三階の一部を僕の私室にして、住民票は別にあるけど、普段はここに寝泊まりしている。
もう10年以上も前だけど、日本中を揺るがせた猟奇事件があった。その被害者の自宅だったのだ。
僕はオバケが怖いからだ。
とりあえずその場で「最悪の場合の対応策」を考えることにした。
最悪の場合、とはなんだろう?
この場合、あきらかだ。被害者の幽霊が出ることだ。
幽霊かオバケが出て、僕を追いかけ回したり黄泉の国へ連れて行こうとする。
それは怖いし、イヤだ。
さて、そういうことはあり得るだろうか?
幽霊が実在するかどうか、これは考えてもわからない。「最悪の場合」だから実在することにしよう。
では、その幽霊が僕にする「最悪のこと」とはなにか?
こういう場合、もちろん論理で考える。
非論理的に考えても、それは考えてることにはならない。
対策にもなり得ないからね。
まず、幽霊の怖さを考えてみた。
①どこにでも現れる不条理さ
②理屈の通じない「コントロール不能な感じ」
③無限のパワーを持って、逆らえない感じ
しかし、この三条件は相互に矛盾している。
①どこにでも現れる不条理さ
「どこにでも現れる」ということは、物理的な実体を持たない、ということだ。
すなわち質量がない=具体的なパワーがない。現れることはできても、紙切れ一つ動かすことは出来ない。つまり「見えるだけ」。
たしかに気持ち悪いし、夜中に出てきたら寝てられないけど、現実的な能力がないという部分では、そこまで怖がる必要はない。
もし出てきたら、ちゃんと撮影して錯覚でないことを確かめて、それから怖がることにしよう。
写真やモニターに映らなかったら、それは心霊現象ではなく自分の心の病気であることを疑った方が手っ取り早いしね。
②理屈の通じない「コントロール不能な感じ」
本当に理屈が通じないんだったら、わざわざ自分の住んでる家に出てくるはずはないだろう。かつて自分が住んでいた家に来て、そこに現在いる僕に存在をアピールするからには「コミュニケーションの可能性ゼロ」ではないはず。
さて、その幽霊にとっての利得計算を考えてみる。僕を驚かせたり怖がらせたりすることは彼にとってとても得策とは思えない。
理由A:出現する相手を間違っている。恨みがあるなら加害者の家に行くべき。
理由B:彼の母親は一階に住んでいるんだから、僕のいるフロアじゃなくて下に行くべき。気づかなければ注意してあげればよい。
理由C:僕を驚かせたり怖がらせたりして退去させたら、母親への家賃は誰が払うのか?幽霊は僕に感謝する理由はあっても、怖がらせる理由はない。
以上、三つの理由で幽霊が出た場合には「説教すればいい」ということがわかった。
もしパワー(物理的な力)があるなら、それは実在する質量がある、ということだ。F=maの法則だからね。
幽霊だろうが心霊現象であろうが、物理法則は変えられない。そんな都合のいい幽霊やオバケがいたら、とっくに人類は絶滅して彼らの配下になっているはず。
つまり幽霊に「リング」貞子みたいなパワーがあるなら、それは実体があるから。実体があるなら、それは「ドアにちゃんと鍵をかければ入って来れない」。
当たり前だよね。
①と③は両立しない。幽霊がどこにでも現れられるなら、実体としてのパワーはない。
パワーがある=質量がある(=実体がある)なら、鍵をかけた部屋には入って来れない。
部屋の中にいる僕に催眠術をかけて鍵を開けさせて入ってきたら?
そこまで頭の回るオバケなら、②の「理屈の通じない」相手ではない。
そのパワーの使い道(遺族を幸せにするとか、犯人に復讐するとか)を助言すればいい。
以上、こういうことを不動産屋で10秒ほど考えて、契約書に判子を押した。
不動産屋は「気にしないんですか?本当に大丈夫ですか?」と聞いたけど、「平気じゃないし、気にするけど、大丈夫です」と答えた。
念のため入居の当日、大家さん(被害者のお母様)にお願いして、仏壇にお線香をあげさせてもらった。
手を合わせながら、「○○さん、念のために言うけど、僕を怖がらせたらダメだよ」と心の中で強いテレパシーを仏壇めがけて発射することも忘れなかった。
うん、これで大丈夫。
僕は安心して、いまの事務所を借りたというわけ。
論理的というのは、オバケを否定する事じゃない。
オバケを怖がる自分の心を肯定して、その対応策を論理的に考えること。
これが僕の考える論理的だ。
おう、今日も長くなっちゃったね。
今日はここまで。
じゃ、また明日ね。