特別企画 解説3連発!!!
警戒すべき岡田斗司夫について
小林 よしのり
単なる漫画家志望の若者をずっと雇ってきていたが、いつの頃からか「おたく」と呼ばれるある雰囲気を待った若者がやって来るようになった時期がある。80年代だ。
自分の趣味の世界にこだわって丁寧に描かれた原稿を見て採用してしまったが、わしの原稿に背景を描かせると一日中、一コマにこだわって悩み続けるばかりであまり役に立たない。そもそも仕事として絵を描くという認識さえないように思えた。
当時は「ネ暗」という差別語が流行っていて、無意味に明るい若者、ひょうきんな若者が評価される時代ではあったが、確かに「おたく」的な若者というのは決 して社交的ではなかった。では、真面目なタイプかといえばそうでもない。ただ、自分の世界、自分の気持ちを大切にしていて他人の介入を許さない、一種頑固 な精神性を待った若者たちであった。
「おたく」的なるものに対してあまりいいイメージを持っていない。だがしかし、わし自身もまたサブカルチャーの世界にどっぷり浸って生きてきた大人になり きれない「おたく」的資質を充分に待った人間であり、団塊の世代より上の、しっかり天下国家に繋がった大人たちに対して違和感を持ち、コンプレックスを感 じていたからこそ、何とか社会というものに、天下国家に繋がる回路を探そうとして、『ゴーマニズム宣言』を描きはじめたのかもしれないのである。
そんなワシの前に、「オタキング」と称して、華々しく登場し、これなら肯定し得ると思える存在として現れたのが岡田斗司夫である。わしが岡田斗司夫を評価 するのは彼が紛うかたなく商売人であるからであり、それこそ警戒が必要なくらいはったりの利く男でもあるからだし、人々を攬乱させけむに巻くだけの知識も 有しているからに他ならない。商売の才覚はエンターテイメントヘの意欲によって決まるし、これに知性が裏打ちされれば岡田斗司失言うところの洗脳力はより 強力なものになってくる。
わしはインターネットや同人誌での洗脳力を信じていない。お金を払って買う価値のない情報と判断された者が、「私は多くの人を洗脳しなくてもいい、それで もわかってくれる人だけでいいから」とささやかに作る、まだ謙虚な人々の創作物が同人誌であり、商売にすると金払ってまでだれも見てはくれん、しかしそれ でも多くの人々に無理矢理見せつけたい、無理矢理洗脳したいという自我の肥大したイカレ気味の輩がうようよ蠢いているのがインターネットである。もともと 過大な洗脳を望んでいないからこそ価値があるのが同人誌であり、実はわしも中学時代『きまぐれ』という同人誌を、高校時代『JACC』というやつを作って 回覧していたのだ。
今、インターネットの中にはわしへの中傷、反感が渦巻いているが、もちろんだれも金を出してまで欲しがる情報ではない。そのレベルの情報では何の洗脳力も ありはしない。商売になるかどうかは洗脳力を計るための重要なメルクマールである。商業主義は一面、快楽主義、短絡主義に流れがちな部分もありながら、反 面、主体的に洗脳を受けたいという意志の現れとして自由洗脳社会に相変わらず最も大きな役割を果たすのは自明であろう。
それにしても「自由洗脳社会」とは突飛なことを考えついたものだ。けれど、これをわしが今、『ゴー宣』で描いている文脈から言えば、すでに日本はアメリカ GHQの占領政策で戦争に対する罪悪感を植えつけられた、まさに洗脳社会でもあるわけだ。ウォー・ギルト・イソフォメーション・プログラム(WGIP)と いうらしいが、今、日本人があまりに当然のことと思っている「戦争は悪」「世界は平和を望んでいる」という観念すらも、GHQに洗脳された新聞など各メ ディアや日教組が、さらに戦後の人々に必死で刷り込んだ洗脳情報でもある。そして戦後五十三年経っても、未だに洗脳を強化しようとする者と洗脳を解こうと する者の戦いが続いているのが現実だ。日本以外のすべての国がいざとなれば戦争する気概を持っているが、日本だけが戦争したくない、出来ないと言う精神構 造に洗脳されっぱなしで、その感覚は世界に通じる倫理のはずだと信じ込んでいる。その隙にインドもパキスタンも核持って意気盛ん、イスラムもアメリカに屈 しまいと血気にはやっている。そんなパワーゲーム剥き出しの世界の中で日本国内に目を転じると、いきなり近代が完成してしまい、高度資本主義の最終形態に まで突入していて、人々は消費者として細分化されてしまい、連帯が失われ家族さえ崩壊寸前で、その上、ビッグバンで今後経済的には非情な弱肉強食の時代に 向かおうとしている。今よりもっともっと、この日本社会から人と人、組織と組織の信頼関係が壊れていって、ビョーキのイカレた人々が増えてくるだろうこと は間違いない。
岡田斗司夫が自我の確立は古いと言い、経済神話も壊れたと言う。これは確かに慧眼である。豊かになることだけが幸福でもないと、これはあくまで「ぜいたく にも」という留保をつけるが、若者たちの中にはそう感じている者がいる。その豊かさすら今後どれほど保証されるのか危うい状況に日本はあるのだが、「豊か さだけが幸福でもない」と若者が本気で思っているのだとしたら、その辺りが、アメリカニズムで覆いつくされた日本の中で案外でパラダイムシフトのための重 要なカギとなるかもしれない。それが洗脳社会ということなのかわからぬが、岡田斗司夫は人々がパッチワークのようにいろんな洗脳者の発信した価値観をつな ぎ合わせて脳の中を構成し生きていくと言う。これが今まで言われてきた価値の多様化—価値相対主義と、どう違うのかがいまひとつわからないところだ。価値 の細分化はどこまでも進むだろうか。わしにはこの価値多様化すらも、消費経済に都合がいいから進んできた傾向のようにしか思えない。しかし、冷戦構造の崩 壊は、実は平和と安定成長の夢にまどろんでいた日本人にとって、今後、過酷な国家のパワーゲームの中に投げ出されることになり、生き残りを賭けて価値を絶 対化する必要が出てくるであろうとわしは予感する。それが先の大戦に進むときのような全体主義への価値統一になるのか、あるいはそれ以外の価値を見つけだ せる洗脳者が現れるかどうかが、これからの「おたく」を含む日本人の運命に大きく関わるだろう。
岡田斗司夫のいう洗脳社会は、果たしてパッチワークのまま身動きせずに未来へ向かうのか、それとも何者かが統一洗脳社会を作ってしまうのか。どちらが恐ろ しい状態なのか、その辺が問題として残っている。岡田斗司夫はわしの前に立ち塞がるのだろうか。それとも協力するのだろうか。警戒すべき男であるのは間違 いない。
(一九九八年八月二十五日 漫画家)
来るべき“洗脳社会”に思う
太田 光(爆笑問題)
“洗脳社会”という言葉だけを聞くと、恐ろしい感じがするが、岡田さんの言う、ソレは、言葉そのものからうけるイメージとはちょっと違う。どちらか というと今より気楽で、楽しげだ。それはおそらく、岡田さん自身の人なつっこさ、そこから来る語り口の軽さ、そして、何より、岡田さんがその来るべき社会 をとても楽しみにしている事から受ける印象だと思う。
『すべてのコミュニケーションとは、洗脳行為でしかあり得ないのです』
岡田さんはこんな事をさらっと言って、しかも不思議と読む者に何の恐怖も感じさせない。成る程、よくよく考えてみれば、人間の会話というものは全て、自分 の意図を相手に強制する目的でしかあり得ない。それはまさしく洗脳で、人は皆、誰かを洗脳するために会話をしているのだ。それは決して恐ろしい事ではな い、とても自然な事だ。
“洗脳社会”というと、管理とかファシズムといったモノを連想しがちだが、それは、たった一人がその他の全員を洗脳した場合にのみ成立する社会であって、 全ての人が洗脳をし合うという社会だったら、そういう事にはなり得ない。むしろ逆に、その社会では、独裁的なものは成立しにくい。
全ての人が、洗脳に敏感な“洗脳社会”では、洗脳のルールやマナー、エチケットが作られ、それを守らなければ自然と社会からはみ出す事になる。昔の独裁者達が行ったようなルール無用の洗脳は、まかり通らなくなるという事だ。
果たして本当に岡田さんの言うような社会が来るのか、私には解らない。しかし、今の社会の状況は、ソレになる下地は充分に出来上がっているという事を感じる事は出来る。
岡田さんは言う。神に対する信仰は消え、やがて科学に対する信仰も消えた。物に対する信仰も経済に対する信仰も消えた。そして、その後に来るのは、誰もが。洗脳する”つまり、自分の価値観によって、他人に影響を与える事に熱中する社会であると。
考えてみると、私達のような、いわゆる“タレント”は皆、洗脳社会に住んでいるのかもしれない。随分前から、テレビ界では、芸よりもキャラタターが重視されるようになっている。番組の中で、その場所に、どんな居方(いかた)をしているのか、視聴者はそれに注目している。
私の様にポリシーのない“お笑い”は、出る番組によって、どんな居方をしていても構わない。新人の頃は、自分の出る番組に対して、今よりもこだわりがあっ た。自分の考えている事とは方向性の違う番組に出ることに対して、かなりの嫌悪感を持っていた。その番組に出てしまったら、自分のイメージが狂ってしまう と思い、その事をとても恐れていた。しかし、いつからか、どんな番組に出て、どんな事をしようとも、結局自分を変える事は出来ないし、他人から見た自分の イメージなどというモノは、そう簡単に変えられるモノではない、と感じるようになった。むしろ逆に、どんなに新しい事をしようとも、結局付いて回り、引き 離すことの出来ないキャラクター、変われる事の出来ない、鈍い自分の個性が邪魔で仕方なくなった。
現在、私は、テレビの中の世界で適当に遊んでいる事が、とても気楽で楽しい。その時だけの自分。番組の中だけのキャラクター。
出る番組によって、その時の気分で、無責任に存在の仕方を変えて、それでも成立する虚構の世界に住んでいるのは、とても性に合っていると思うようになった。
これは、パソコン通信の中での存在の仕方に近いのかもしれない。しかし、私達の場合、ソレが単にテレビの中だけの事では済まなくなる場合がある。街を歩い ている時、他人から声をかけられて、その人の自分に対する対応の仕方の中に、テレビの中にだけ存在したハズの自分を見てしまう事がある。そこで、現実と虚 構の辻棲合わせをしなければならなくなる。それがキツイ。割かれていたハズの人格が、つながらなければならない。今の段階では、これが、避けられない現実 である。
しかし、岡田さんの言う洗脳社会では、その現実と向き合わなくて済むのではないかという気がする。パソコン通信の中での社会。肉体を伴わない“意志”だけ のコミュニケーションで成り立つ世界。多岐に渡るフォーラムでその都度、好きなように人格を変えて存在出来、その時の気分で一瞬にして他のフォーラムに移 動出来る気楽さ。
でも私は一方で、その社会に対して、言い知れない不安と欠落感を憶える。その社会は、私の中での“あの世”のイメージと重なるのだ。人間の生活する社会は 生きながらにして、あの世に近づきつつあるのではないだろうか。そして、そこに不安を感じるのは、私がまだ、肉体を伴わない愛情というものを感じる事も表 現する事も下手くそだからなのかも知れない。
その社会で生きるには、いくつものタレント性が必要になってくるだろう。このフォーラムにいる時には、この自分。こちらの仲間といる時にはこの自分。といったように、軽やかに自分を変える、ある種のセンスと反射神経も大切だ。
要求されるのは、キャラクターである。
私も何度かパソコン通信で、リアルタイム会議というものに参加した事があるが、画面に映し出された自分の言葉に、とても違和感を感じたのを憶えている。何 か不器用な感じになる。その中で、自分のキャラクターを確立するのは難しい。慣れてる人は、実に巧く個性を表現している。その場所に、自分がどんな居方を すればハマるのかを知っている。
もし、人間のテレパシーが発達して、言葉を使わずに意志を伝える事が出来るようになったら、そこで問題になるのは、「何を伝えるか」ではなくて、「何を伝 えないか」であるだろう。情報の量が増え、手段が増えるとともに、ソレに合った伝え方、ソレに合ったキャラクターを使い分ける能力が必要になる。
岡田さんという人は、その混沌とした状況の中で、アクロバティックに自分を変化させる術を心得ている人なのだろうと思いつつ、この本を読んだが、あとがき に、この本を書くにあたって、人を前に話していた時はペラペラと自分の考えを話せたが、ワープロや紙を前にした途端、一言も言葉が出てこなかったという話 があり、大笑いした。人の反応がないと喋れないという。まさに「根っから芸人」なのだろう。そして、岡田さんの、そういう部分が、この本全体に漂う暖かみ なのだろうと思った。
(一九九八年八月 漫才「爆笑問題」)
『ぼくたちの洗脳社会』単行本版担当者から
角田 暢夫
本書の単行本版は、岡田斗司夫さんには初めての著書だった。著者として新米だったのをいいことに、編集者という役目柄あの手この手で脅迫した。幸い 読者に迎えられ朝日文庫の一員にも加わったが、黒衣(くろご)がこんな場所にでしゃばることにもなった。当時の借りを忘れずに返してくれたのだろう。恩義 に厚いのが岡田さんのいいところだ。
この地上が物語の世界でないことは、だれでも知っている。その証拠に、幸福な酔っぱらいも不幸な確信犯も楽々と予定調和の引力を振り切り、予測不能 のタネを播き続けている。だから、この世についての謎解きは難解だということに相場が決まっている。正解はないといってもよい。それが歴史から学んだまっ とうな常識である。
本書で岡田さんは、足もとの時代を丸ごとそのままぽんと受け入れている。なにかを付け加えたり、置き去りにしようとした気配はない。底から総ざらいしたと いう自信があったからだろう。そうしておいて、時代を支える言葉と行動について先人が用意してきた用語を次々に読み換えていった。陳列棚に蒐集した大切な ブリキのおもちゃを並べ換えるように、一つ一つ丁寧に。その換骨奪胎は明快で、確かに未来に対する新鮮な読解法を示してくれた。
しかし岡田さんの内に棲むコレクターのDNAは、社会の諸装置の破壊を許さなかった。そのため、手繰りよせた未来世界も予定調和の重力圏に閉じ込められて しまった。意図したとは思えないが、岡田さんが書いたのは未来の物語だったようだ。物語には宿命がある。推理小説は犯人を登場人物の名簿の内に封じ込め、 謎解きは物語の引力圏内でなされる。
こうした宿命の装置に牙をむく流儀を、岡田さんはとらなかったのである。それが本書に穏やかな気分を添える一方、楽観主義の歯がゆさを感じさせるのだろうか。
「正当であることの自信と、正統でないことの不安」——原稿を読みながら当時こんな言葉が浮かんだ。手帳にメモしてある。軽い足取りの奥に潜む感傷の塩味に共感したからに違いない。帯のキャッチコピーには使わなかった。
(一九九八年九月 朝日新聞社勤務)