(11月15日(月)公開) 著作物の私的複製は、法律以外に「DRM」という仕組みでもコントロールされています。コピーが蔓延するのを防ぐDRMは、権利者にとってはありがたい存在。けれど、DRMには問題点もあると福井弁護士は指摘します。 私的複製の範囲をコントロールするDRMの問題 前回は、私的複製を許さないための仕組みはもう存在しているというお話でした。福井先生は、これをやり過ぎるのは問題だとおっしゃいましたが、何が問題なのでしょう? 福井:書籍は、ただの紙ですから、これをスキャンするのは簡単には止められません。では、映画のDVDについてCDのように私的コピーが普及しているかというと、無論あるでしょうが一般的ではない。なぜかといえば、普通の人がコピー視聴できないようにする技術が使われているからです。こうした著作権を守るためのデジタル技術を総称して、「DRM」(Digital Rights Management:デジタル著作権管理)と言います。 DRMによる規制は、10年くらいかけて自然に調整されていくように思います。例えば、DVDの売上はどんどん減少している。そして結局、コンビニで500円にしてDVDを売るしかなくなってしまった。コンテンツを愛している一番熱心なユーザーにDRMで不便を強いて、その結果として海賊版を広めて、激安で売るしか道がなくなってしまった。さらには映画人口を激減させてしまったというのが、現状でしょう。 コピーを自由にすると、売上は減る? それとも増える? 福井:市場による調整が大きいのは間違いありませんね。ここで重要になるのは「検証」だと思うんですよ。どの程度コピーを自由にしたら、どの程度マーケットの拡大が見込めるのか? 15年前、僕は『僕たちの洗脳社会』という本を書いた時、実験を1つ行いました。本の出版と同時に、中身をすべて自分のサイト上にアップしたのです。たんにテキストデータをアップしただけですからいくらでもコピーできる。でも、売上が落ちたりはしませんでした。『いつまでもデブと思うなよ』が出るまで、僕の著書の中では『僕たちの洗脳社会』が一番売れた本だったんですよ。 福井:最近だと、小寺信良と津田大介の『コンテンツ・フューチャー』(翔泳社)がクリエイティブ・コモンズ・ライセンス(※)付きで発表されたり、電子書籍を無料公開してプロモーションに利用するといった例が増えていますね。 ※:著作権者自身が、自分の著作物をどう扱って欲しいかを明示するための仕組み。クリエイティブ・コモンズには、著作物を人々が共有して、二次創作を盛んにしようという意図がある。 そうですね。 福井:『著作権とは何か ―文化と創造のゆくえ』(集英社新書)にも書いたのですが、ある意味、著作権は壮大な社会実験だと思います。だから、色々な思考実験をして、色々なことを実地で試していけばいい。ただ、やるならばきちんと事後検証すべきです。「コピーを自由にしてみたけど、思ったほどマーケットは拡大しなかったね」とか「そのかわり、こういった副次効果があった」といったことを検証しつつ、よりよい制度を作っていこうという姿勢が重要です。 法律で「遊ぶ」のは、大人の務め ちょっと話を戻させてください。私的複製のところで、自分が「自炊」して、バイトを雇うくらいなら大丈夫だろうという話がありましたね。 福井:はい、私はそう考えています。自分の手足となる人間を雇う程度なら問題ないでしょう。 スキャン代行業者に外注することが問題なら、そういう業者の株主になるというのはどうでしょう? つまり、株主が1万人くらいいて、業者の社員は10人くらいという。 福井:なるほど、株主にとって企業は自分の所有物。自分の手足のように使える組織にしてしまおうということですか。「拡大家族」から「拡大企業」ですね(笑)。 このやり方は、『ナニワ金融道』的な言い逃れの臭いがしますけど。 福井:今の話はともかく、私たちは、制度がどうあるべきかという問いから逃げてはいけないと思います。今の法律が時代錯誤だろうが何だろうが、我々の代表が作ったことには違いないわけです。法律が間違っているから守らなくてもいいと言い始めたら、我々の社会なんて「しょうもないもの」になってしまう。今のルールがおかしいと思ったら、議員に働きかけるなりして制度を変えていくと。 法律を変えたらみんな得するし、楽しいことになると、伝えられれば一番ですよね。 福井:そうそう。 合法の範囲内で、「遊び」を仕掛けられれば面白い。 福井:面白いですよ。その遊びに若干のグレーさが混じっていたとしても、やってみるという発想がないと、何も変わらないでしょう。 誰かがリスクを引き受けて面白い遊びをする。で、先生に怒られると。 福井:あまり極端なのはよくないですけど、ちょっとのリスクなら。こういうことに関しては、弁護士のいうことを聞いちゃダメですよ(笑)。 福井先生が、自分の書いた本とはいえ、実際に業者を使って「自炊」したとおっしゃったのは、とても大人な感じで、かっこいいなと思ったんです。 著作を引用する時に許諾を取らないといけない? 福井:私はね、けっこうかっこいいんですよ!(笑) 例えば、『著作権の世紀―変わる「情報の独占制度」』(集英社新書)などの図版はすべて無許可で引用して、私の選択と責任の元で掲載しています。編集者にしてみれば、普通はいちいち許諾を取って掲載するケースが多いから、内心心配だったかもしれない。だけど、自由にさせて下さった。引用は著作権法の例外として法的に認められている行為です。法的に認められているのに、みんな許可を取って引用する、そんな馬鹿な話はない。それでは、他人の著作を批評することもできなくなってしまいます。 引用する時に許諾を求める「癖」を付けちゃいけませんね。先日発売された僕の『遺言』(筑摩書房)は、こんなに分厚くて、図版も大量に収録していますが、許諾は一切取りませんでした。 福井:うわ、これすごいですね! あ、キャプテン・アメリカも出てる。いやいや読みふけっちゃいけませんね。あとでゆっくり読ませていただきます。 それぞれの図版について、本文をきちんと対応させているし、説明する上で絶対にこれらの図版が必要ということで、引用の要件を満たしていると判断しました。 福井:引用は法律で認められているのだから、別に「冒険」でも何でもないじゃないかと言われるかもしれないけど、実際どこまでが引用で許されるのかはグレーの領域も大きいですね。だから、若干は冒険も必要になる。そうしたリスクをちょっと取らないと面白いものは作れないんじゃないでしょうか。私の本は面白くないかもしれないけど、オカダさんの本はリスクを取ったことで、間違いなく面白くなったでしょう。 僕たちがこういう取り組みを試してみることで、出版社に対する教育にもなるし、通例を作ることにもなる。逆に言うと、それくらいのことしかできないんですけど。 福井:引用する際に、出版社が許諾を取りたがるというのもわかるんですけどね。例えば、神社仏閣です。境内での撮影を禁止するというならともかく、世の中に出回っている建物・仏像などの画像の利用にもルールを設けたり、使用料を請求して来るケースがあります。 (次号に続く)
DRMには大いに有益な面もありますが、使いようによっては私的複製を一切禁止するツールにもなってしまう。そして、DRMが及ぶ範囲は、権利者とメーカーの話し合いで決まってしまい、ユーザーの関与する余地は基本的にありません。それならば、DRMよりも、まだ法律の方がマシなのではないか?
もちろん、今の法律にたくさん不備があるのは確かでしょう。でも、私たちの代表である国会議員が国会で議論した上で決めているわけで、その過程も一応オープンにはなっています。理屈の上では、法律がおかしいと思ったら、私たちは選挙権を行使して代表を換えることだってできる。だから、ここまでの話を聞いて今の著作権法に問題があると思うなら、私たち自身で制度の設計をどんどんやればいいんですよ。
ところがDRMだと、権利者とメーカーというごく一部の人たちだけで、事実上のルールに等しいものを作り出してしまえる。法律は私的複製を許しているのに、DRMによって、家庭内どころか個人だって何もできないような状況を作れるのです。
これと比較して興味深いのがブックオフなどの新古書店です。登場した当時は、批判も多かった新古書店ですが、結果的に読書人口を増やすことにつながったのではないでしょうか。DRMでガチガチに固めるのと、複製を自由にするのと、どっちが業界にとってメリットがあるのか?
この答えはもう明らかになっていると思います。今後、複製自由な方向に進めるしか、業界を活性化する方法はないでしょう。最初にいったように、マンガ研究家がもっと自由にマンガを研究できるようになれば、結果的にマンガを読む人も増えるわけです。
DRMで固めてこれから数年の売上を守っても、マンガ人口を減らしてしまっては本末転倒。今の本屋はマンガをラップして立ち読みを禁止したことで、売上が減ったと言われています。同じことをまた繰り返すのでしょうか?
例えば、著作権をなくして、コピーも完全に自由にしたらクリエイターは本当に潤うのでしょうか? 話がそこまで行くと、私は懐疑的です。作品のコピーはおろか流通まで完全に自由にしてしまったら、ユーザーの利便性の点では最高かもしれないけど、クリエイターが食べていけない世の中になって、長期的に見ると優れた面白い作品が減ってしまうかもしれません。こういったことを検証していくべきでしょう。
逆に言うと、ネットに公開してコピーできるようにしたことで、いろんな人が本の中身を引用できるようになった。引用されると、本は売れます。今の世の中では、「知られていない」ということが一番まずい。それより、全文をコピーできるようにして知られるようにした方が、クリエイターにとっても有利になる。それが、ロングテール社会の特徴だと思います。
もちろん、例外はあって、村上春樹クラスになると別です。『ノルウェーの森』は、全文コピーで世に知られることより、実物が売れる利益の方が大きいでしょう。僕に対して成立することが、村上春樹だと成立しない、たぶんどこかに変異点があるんですね。
ただ、そういう手法が注目を集めて紙の本まで売れるのは、まだ電子書籍に稀少性があるからかもしれません。同じことをみんながやるようになったら、果たして紙の本の市場がどうなるのか、まだ不明点が多いと思います。
そういう検証がないまま議論していると、権利者はしばしば権利を守ること自体が目的になってしまう。「権利が守られてさえいればそこから収入が得られなくてもかまわない」という本末転倒な話にもなりかねません。他方、自由コピーを求める議論をする側も、権利者に対して「バラ色の仮説」を語るだけでその検証が不十分では、結局神学論争になってしまいます。
これは、世の中すべてについて言えることです。もし、弁護士から文字通り100%のお墨付きをもらえるまで新規ビジネスに参入しないという企業があれば、その企業や産業は確実に衰退、没落していきますよ。
もちろん、先ほども言ったように、「悪法だから守らなくてもいい」という立場に私は与しません。でも、グレーにならざるを得ない領域で一歩踏み出す勇気は、持つべきです。
これは、法的にはおそらく根拠はありません。建築や仏像は著作権が切れているものが多いでしょうし、著作権法の例外規定にあたるケースも多いからです。だけど、法律がこうなっているからといって、普段から許可を取らずに画像を利用していると、いざという時に取材に協力してもらえないかもしれない。
ほかの引用についても同じことがいえて、どうしても出版社は及び腰になりがちなのでしょう。